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第4話

やはり昨夜、クロムはなかなか寝付けなかったようだ。 しかし今は深く寝入ってしまっているクロムの横を、そっと抜け出して朝食の用意を始めた。 クロムがパンを焼くと言っていたので、魚などを焼く目の細かい網と炭を用意してみた。 まず試しにパンをひと切れ焼いてみたが、どうにも魚臭くていけない。 綺麗に洗ったつもりでも、網目に匂いが入り込んでいるようだ。 網とパンの間に木切れを差し込めばどうにか魚の匂いはマシになった。けれども、マシというだけだ。 「おはようございます。いい朝ですね、師匠」 試行錯誤している間に目を覚ましたクロムが、起き抜けとは思えない爽やかな笑顔で挨拶をしてくる。 『いい朝』というのが、どういう朝を指すのかもよくわからない。 俺ですら板張りの上に薄い寝具を敷いただけでは身体がきしむ。 クロムはそれ以上に辛いのではないかと思うのだが、そんな事など全く感じさせない晴れやかな表情だ。 そして、また俺を見張るように背後に張り付いてきた。 貴族に見張られるという状況はどうにも落ち着かなかったが、やめてくれとは言い出せなかった。 やっぱり落ち着かないまま二人で食事をとり、仕事の前に家事をこなす。 馬の世話や、畑の手入れなど、いつも通りに作業を行っていく。 けれどその間もやっぱりクロムが張り付いてくる。 どうにもやりにくくてしかたがなかった。 そして、いつもと同じように仕事の準備を始めた。 材料の在庫確認や予定を確認をする。 仕事に向かえば高い集中力で、クロムのことはすぐに頭から消えてしまっていた。 一方クロムは、仕事に集中する俺に声をかけることもなく、ただじっとそばに付いて見ていた。 昼になり、食事をし、所用をこなす。 それからまた仕事だ。 クロムにじっと見られ続けているせいで、いつもなら細やかで気を張らねばならない仕事が、今日だけはほっと息をつける時間のように思えた。 ふと気付くと日が落ち、終業の頃となっていた。 一日の仕事が終わり、ほう……と息をつく。 けれど、息をつける、ということ自体に違和感があった。 そうだ、ずっと張り付いていた視線がない。 ハッと気付いて見回すと、居室の土間でガタゴトとなにやら気配がする。 様子を見にいくと、なにか重大事件でもおきたかのような顔で、クロムが野菜に包丁を突き立てていた。 「………何を…しているんですか」 そう訊ねると、クロムが泣きそうな顔で振り向いた。 「申し訳ありません、夕食を用意しようと思ったのですが、どうにも上手くいかず……ただ切って水に入れるだけだというのに、不甲斐無いことです」 切った野菜を水に入れただけでは料理にはならないが、クロムの悲壮感漂う顔を見てしまうと、そんな指摘をする気にもならなかった。 クロムから包丁を受け取り、代わりに野菜を切る。 昨日は涼しい顔をして見ていたクロムだったが、今日は俺の手元を必死の形相で見つめている。 野菜を無惨な姿に変えてしまったクロムも、湯を沸かすことはできたようだった。 その湯を湯浴み場に持っていこうとすると、クロムが俺をさっと制して、代わりに大げさなまでに慎重に持ち上げた。 湯を持ったまま入口まで行って、ちらちらとこちらを振り返るので、俺もクロムの後をついていく。 ザッとたらいに湯を張ると、クロムが満足そうに口の端をあげた。 しかし、自分の自慢げな表情を恥じらい、パンパンと両手で軽く顔を叩く。 その後、クロムが切り刻んでしまった野菜からどうにかつくった食事を終えれば、また必死の形相でおっかなびっくり片付けをし始めた。 俺が片付けた方が余程早いのだが、手を出そうとすれば断られ、不安げな顔でチラチラと見てくるので、そばで様子を見守るしかない。 次の日も、朝からクロムが家事を俺の代わりに行おうとする。 けれど上手くこなせたのは馬の世話だけだった。 洗濯など初めて見る作業になると、暑苦しいくらいに俺の行動を観察してくる。 正直こんなに手のかかる弟子は初めてだった。 とはいえ、彫金の作業は真面目に見つめるだけで、勝手に手を出してくるようなことはない。 ふと気付くと、メモをとったり、動作を真似したりなどしているようだ。 それから三日もたてば、俺はクロムに疲れさせれられることに慣れてきた。 クロムが俺にしつこいくらい張り付いていたのは、弟子は師匠の世話をし、仕事は見て学ぶものだという思い込みからくるものだったようだ。 けれど、このままでは俺に迷惑がかかるばかりだと気付き、少しづつ質問をするようになった。 クロムは丁寧ながらも貴族らしい傲慢さを感じさせる口調から、弟子らしく「承知しました!」などガチガチな返事を返すようになり、しばらくするとニコリと親しみやすい笑顔を見せ、優しい口調で話すようになった。 その言葉一つで俺ヘの向き合い方の変化もよくわかる。 クロムは教えてもらえるのが嬉しくて仕方がないといった様子に見える。 そんなクロムの笑顔に俺の頬も自然と緩んだ。 眩しく威圧的であることには変わりないが、俺の知っている貴族と比べると、随分と親しみやすく、また、クロムも俺に受け入れられるために心を尽くしてくれているようだった。 クロムはまだ一連の流れなどをきちんと把握できてない段階で彫金の作業中に質問をするのは、だだ俺の邪魔をするだけだと自覚しているようだ。 それでも、仕事の邪魔にならないタイミングを見計らって、道具や設備の種類や手入れ、それから工房の掃除まで様々なことに興味をもって質問をし、覚えようとしていった。 そんな姿勢に俺も、この貴族の青年が本気で彫金師の弟子になる気なのだと、信じずにはいられなかった。 ◇ クロムがこの工房に来て数週間が経った。 初めは緊張のせいか、気取った印象だったクロムだが、すぐに俺のことを『師匠』と呼んで慕ってくれるようになった。 いつも楽しげで、気位の高い貴族とは思えないほど晴れやかに笑い、失敗すればみっともない顔を隠すことなくしょげる。 クロムのおかげで工房の空気はぐっと明るいものとなった。 クロムの朝の挨拶一つで、一日がいい日になりそうな気がする。 畑仕事や掃除など決してさせられないと思っていたが、クロムは楽しそうに俺と一緒にそれらもこなす。 道具の手入れを覚え、少しづつではあるが金属の種類と扱いも覚えはじめ、初めて弟子がきちんと仕事を覚えていくことに俺は感動していた。 俺はどうにも『伝える』という事が苦手だった。 とことん教える立場には向かない。 けれどクロムは、俺がそろそろこれを教えたいと思えば、そんな様子を察して自ら質問をしてくれる。 素晴らしい弟子だ。 さすが、官吏として十位以内で採用されただけのことはある。 そう思って、黙々と道具の手入れをする弟子を眺める。 けれど、クロムが視線を感じ、スッと顔をあげると、俺はそろそろと視線をそらす。 クロムに強い視線でじっと見つめられることには耐えられるようになったが、まだ目と目を長く合わせることはできなかった。 華やかな王都を離れ自然に囲まれた生活を始めてしばらく経てば、発せられていた貴族としての威圧感や圧倒的なきらめきはかなり弱まり、同じ工房で作業をすることに俺もすっかり慣れたが、それでもクロムはまだまだまぶしい。 クロムがニコリと微笑めば室内に柔らかな光が射すような気さえする。

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