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第5話

クロムは今までの弟子希望者とはあきらかに違った。 初めは貴族であるクロムが本気で彫金を学ぶ気なのだということ自体信じられなかった。 修業以前に、この暑さ寒さにさらされる工房で過ごすことからして耐えられないだろうと思っていた。 けれど今は、もし俺の教えを物足りなく思いこの工房を去ったとしても、その後も別の場所で彫金を学び続けるだろうと、そう確信できた。 そして俺はそのことが嬉しかった。 クロムが購入した民家の改装ももうすでに終わっている。 しかし家具がいくつか不足しているという理由でまだ入居はしていない。 家具が不足していようが、並んで雑魚寝をするより余程過ごしやすいだろうし、厠へと向かうたびに緊張した面持ちで火ばさみを持ち、蜘蛛などの大きな虫を排除する必要もなくなるはずだ。 しかし、そのよくわからないこだわりが貴族というものなのかもしれない。 代わりにクロムは工房の居室に何やら手軽に敷ける軽くて厚手の寝具を二組持ち込んだ。 普段は寝台とともに立てかけておくので、そう邪魔にもならないし身体も痛くはならない。 それでもやはり新しい住居に入った方がいいのではないかと思うが、 「やはり、私が隣にいることで、師匠をご不快にさせてしまっているのでしょうか」 などと寂しげな表情で言われると、もうそれ以上何も言えなくなってしまう。 俺を師匠として敬い、慕ってくれて、どんな仕事も嫌がらないが、やはり貴族の気質はなかなか抜けず、俺の意思よりは自らの意思を優先することに疑問を持たないようだ。 とはいえ、クロムにとって『シロガネの弟子』という立場は大切なようで、俺をないがしろにするようなことは決してない。 むしろ、必要以上に大切にされ、俺の方が居心地の悪い思いをすることがある。 初めはクロムのために沸かしていた湯浴みのための湯だが、すぐにクロムが俺の背中を洗うようになった。 もちろん俺は断った。 しかし、クロムはその断りの言葉を遠慮と捉え、恥ずかしがろうが、嫌がろうが、 「恥ずかしがることはありません。師匠の世話は弟子の務めです」 と、過剰な弟子の務めを果たそうとする。 さらに、最近は腕や足など、秘所以外は全てクロムが洗いたがり、やはり断っても聞かない。 俺の細く筋張った身体には、良く使う部分にだけ筋肉がバランス悪く付き、どうにも貧相にみえる。 そのうえ四十を過ぎ太ももや胸など、あるべき肉が付いてない部分の肌がややたるみ始めた。 そんな身体を若く美しい部類に入るであろうクロムに洗われるというのがどうにもつらい。 けれど、そんな内心の葛藤を顔に出すこともできない。 恥ずかしがる姿を見せることすら恥ずかしいのだ。 クロムに洗われている間、俺はひたすら目を瞑って羞恥にたえるばかりだ。 洗い上がりを確認するように、首筋と脇の辺りでクロムがスンと小さく鼻を鳴らす。 この時が一番つらく、あえて気づかないふりを続けている。 確認せずにはいられないほど、匂いで迷惑をかけているのかもしれないと思うと本当に情けなくなってくる。 自分で身体の前面を拭いている間に、クロムが背中を拭きあげ、仕上がりを確認するように、ちょっと眺める。 その時に、乱れた腕の毛や、薄っすら生える胸毛を指で軽く梳いて整えられると、裸のまま走って逃げ出したくなってしまう。 けれど、その恥ずかしさにも、どうにか堪える。 いくら断っても聞かないのだから、堪えて受け入れるしかないのだ。 とはいえ、クロムの奉仕は忍耐を強いられることばかりではない。 それまではヒゲも二ヶ月伸ばし放題で、髪の手入れもしていなかったが、今では髪もきれいに整えてくれて、少しヒゲが伸びればクロムが丁寧に剃ってくれる。 俺はあきらかに身ぎれいになって、麓の町に飲みに出ても、弟子が来てからすっかり若返ったと言われはじめた。 板で仕切っただけだった湯浴みのスペースも、クロムの家の改修ついでにと、たった一日できちんとした小屋になっていた。 それに、少しやり過ぎなだけで、クロムに背中を流してもらうという事自体は嫌ではないのだ。 息子がいたら、こんな感じなんだろうかと思うこともある。 仕事の休憩はきちんと時間が決まっているわけではない。 そろそろ休憩に入ろうという俺の様子を察して、クロムが茶を入れてくれる。 クロムは料理は全くだが、茶を入れるのだけは上手い。 貴族のたしなみらしい。 温度や時間などに気遣っていれた茶は、うちの安い茶とは思えないほど良い香りが立つ。 「ああ…うまい……」 クロムの茶を飲むと、いつも小さく笑みがうかぶ。 すると、そんな私の様子を見て、クロムがさらに嬉しそうに微笑む。 「たった一つだけでも、師匠のお役に立てることがあって嬉しく思います」 初めてクロムの茶を飲んで誉めた時に、そんな謙遜なことを言っていた。 確かに日常的なことはあまり得意ではないが、慣れていないというだけで、元は優秀だ。仕事も生活も全てが一からなのだと思えば、以前いた工房の弟子たちと比べても、覚えは早い方に違いない。 けれど、今は潜めているとはいえ高い理想とプライドをもったクロムは、他の弟子と比べ優秀だと言っても、それを当然のように受け止め全く喜びはしないだろう。 「一つだけではないさ。クロムが来てくれてから、工房が明るくなった。クロムが笑えば俺も楽しい気持ちになるよ」 他者と比べたわけではない、クロムだからだと言える長所を言葉で伝えた。 そんな事を言われるとは、想像もしていなかったのだろう。 一瞬クロムが目を見開き、顔を真っ赤にした。 「……ほ……本当ですか?」 まるで恥じらう少女のように両手を顔に当てる。 手で自分の顔を確認でもしているのだろうか。 貴公子然としたクロムには似合わぬ反応に、俺の頬も自然とゆるむ。 「もちろん。嘘など言うわけ無いだろう。俺はお世辞が言えるほど口が上手くないんだ」 視線をさまよわせていたクロムが、おずおずと俺の手を取った。 「師匠の心を明るくすることができて……嬉しく思います。私は、師匠のお側で学べるだけで幸せで……以前では考えられないくらい笑顔も増えました。ですから、私の笑顔は全て師匠のおかげなのです」 「そう……なのか?」 「はい」 クロムが以前はあまり笑顔が無かったということを意外に思った。 けれどそれ以上に、俺の元で修業できることを幸せに思ってくれていると、言葉で伝えてくれたのが嬉しかった。 プライドが高いがゆえに、取り繕ったおべっかなど、思いつきもしない性格のはずだ。 いつも笑顔を見せてくれてはいても、貴族社会とは全く違う環境に身を置き、かなり辛い思いをしているのは間違いない。 それでも、苦労の中に喜びを見いだせるクロムの強さを好ましく思った。 安い茶葉でもこんなに美味い茶を入れられるのだから、クロムに見合った茶葉や茶器を用意しようか……。 そして、いつかクロムの作ったバタフライクリップを使って少し贅沢な茶の時間を楽しむのも良いかもしれない。 まだ正式な弟子となってもいないクロムとの未来を、当たり前のように想像する自分がいた。

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