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第9話

私は『シロガネ』に許された。 幼い頃からずっと憧れ、ようやく念願かなって弟子入りをした『シロガネ』の工房を自分勝手に飛び出してしまい、もう受け入れてもらえないだろうと、半年の間後悔しかなかった。 けれど、あのままの状態で修業を続ける自信が、私には持てなかった。 きっかけだけを考えれば、どうにも馬鹿馬鹿しい理由で飛び出してしまったものだと思う。 けれど、根底にあるのは私の生まれに係る、意識の問題だった。 幼少の頃から常に優秀な部類で、できないことがあってもすぐに対策をみつけ、さらに効率よく努力を続けることで、大抵のことは人並み以上にできた。 それ故に、シロガネの元で修業をすれば、自分は何だって習得できるんだと思い上がっていたのだろう。 周囲に弟子入りを許してもらうため、学業など様々なことに努力はしたが、修業を開始してからの準備などは何もしていなかった。 精々独学で腕輪を作った程度で、趣味の範囲を出ないものだ。 (あなど)っていたつもりなどなかった。 けれど、私は無意識のうちに、職人というものを下に見て侮っていたに違いない。 結果、シロガネの工房を訪ねた最初の一日だけで、自分がどれだけ甘かったかを思い知らされることとなった。 修業以前の問題だった。 彫金や金属などの知識も不足していたが、それ以上に日常生活がまったくおぼつかなかったのだ。 そんな準備が必要だということにすら気付いていなかった。 私は、日常生活において自分のことは自分でなんでもできると思っていた。 けど、それはあくまで貴族としてはというだけだったのだ。 師匠の前では平然とした顔を取り繕っていたが、初めての日はあの工房の全てが衝撃だった。 庭に積んでいる薪は見たことがあった。 屋敷でもストーブに薪をにくべたことが何度かあったからだ。 けれど、調理に使う炭や練炭、それから油。燃料だけでこれだけ種類があるということに目眩を覚えた。 さらに工房と居室が隣接していることにも驚き、座卓などというものに驚き、粗末な食器に驚き、床に直接座り食事をするということに驚いた。 師匠の一挙手一投足を見逃さないようにとじっと見つめても、何日経っても発見だらけ。 とにかく驚かないものがなかったのだ。 弟子は師匠の仕事を見て覚えるものだという事は知っていた。 けれど、驚きだらけのシロガネの工房にあって、仕事のみならず、生活までも見て覚え自分のものとしようとしても、すぐに限界がきた。 このままでは師匠の手を煩わせるだけだと、恥を忍んで質問をすれば、作る作品そのままに優しく繊細な師匠は、下らないことでも静かな口調で親切に教えてくれた。 それでもまともに生活できるようになるまでに何日もかかってしまった。 官吏として、様々な仕事に携わって来たが、こんなに準備不足で何かに臨んだことなどなかった。 それどころか、学生時代や官吏として勤めていたときは、自分にも人にも厳しく、鋼の心を持っているなどと揶揄されるくらい全てにおいて完璧を目指していた。 自分の思い上がりと、不見識を恥じ入るばかりだ。 私が不出来な自分を責めても、師匠は私を責めたりなどしない。 見放すこともしない。優しく見守ってくれている。 そのことが私の心の支えだった。 『シロガネ』の装飾品と、それを造りだす『シロガネ』自身に強く憧れていたが、間近でその人物に接して、私の想いはより強くなるばかりだった。 とにかく正式な弟子として認めてもらうため、二ヶ月の間に生活面だけでも迷惑をかけないようになりたかった。 ……そう思って、頑張っていたのだ。 私にとって、師匠が制作に集中できるようにと尽くすことも喜びとなっていた。 初めて誉めてもらったときの事は忘れられない。 私のいれるお茶が美味いと、幸せそうな表情で言ってくれたのだ。 貴族のたしなみとして、茶をいれるくらいのことは当然出来た。 しかし、この工房には私の知識の範囲内にある最低限の茶器すらなく、どうにか工夫をしていれた茶だった。 私の入れた茶を口に含むと、師匠の優しく細い目がさらに細まり、ほっと息をついて頬が緩んだ。 その表情を見た瞬間、私は大きな満足感と溢れる幸せを得た。 それは官吏として、多くの人々の生活に拘わる大きな仕事を完遂した時にも感じたことの無いものだった。 私はシロガネの下で、尽くす幸せというものを、生まれて初めて知ったのだ。 仕事が終わり、湯浴みする師匠の背中を流すと、恥ずかしがりながらも嬉しそうにしてくれる。 少し前までなら、貴族である私にとって、誰かの入浴の手伝いをするなど考えられないことだった。 けれど、師匠に尽くし満足そうな顔をしてもらえると嬉しくなってしまい、生活の全てを求められる以上に手伝って困らせたりもした。 私がかつて受けたマッサージのことを思い出し、腕を揉んだこともある。驚きながらも少し照れた師匠に、感謝の言葉をもらい、とても幸せな気持ちになった。 師匠の元で、私は大きく変わった。 貴族社会では自分の感情を素直に表すなどありえない。 私も同じように取り繕って生きてきた。 いやそれどころか『シロガネ』に弟子入りするために死にものぐるいで努力した結果、自分への厳しさが他人にも向き、無愛想で厳格が過ぎた人間だったように思う。 なのに、まるで異世界のようなあの谷の工房で、師匠とほんのすこし過ごしただけで、私の鋼鉄の仮面ははがれ落ちた。 自分の無知を思い知らされ、失敗して落ち込む。けれど同時に新鮮な発見に、子供のころのように無邪気な笑顔が浮かんだ。 それまでの全てをかけてようやく手にした『シロガネの弟子』としての生活に心が沸き立った。 師匠には、これまで誰にも見せたことのないような、情けないところをかなり見せてしまっていた。 それでも、大きな心で私を優しく受け止めてくれ、私もその心にどうにか応えたいと思った。 共にいて、こんなに幸せになれる人は初めてだった。 私にとって、師匠とともに料理をするのも楽しい時間だった。 けれど、二ヶ月という区切りを目前にして、いつまで経っても全く上達しないというあせりが出始めた。 共に過ごすのが楽しいからといって、いつまでも師匠に料理をさせるわけにはいかない。 そう思って料理を任せてくれるよう頼み込み、試行錯誤を繰り返した。 けれど、工夫をすればするほど裏目に出た。 師匠は私の料理を不味いとは言わない。 だが、師匠よりもきっと肥えているであろう私の舌は、自分の料理に毎日悲鳴を上げ続けていた。 最後に師匠に食べさせた料理に名前をつけるとするならば『ソーセージと野菜の炒め物・絶望仕立て』だ。 不味いと言わない師匠の眉間のシワが、私にその心中を伝えてくれる。 これからも自分は大切な師匠にこんなものを食べさせ続けるのか。 シロガネの正式な弟子となるために、日常の最低限の事くらいはきちんとできるようになっていたかった。 しかし、それは叶わなかったと言える。 そして、私は『味見』の存在をそのとき初めて知った。 それは料理の味を整えるために、とても一般的な作業らしかった。 それまで師匠が『味見』をするのをしばしば目にしていた。 なのに私は…………。 師匠の生まれが卑しいゆえに、調理中でも食べ物を口に運ぶのだ……と思ってしまっていたのだ。 私は自分に絶望した。 この不出来な料理は正式に弟子と認めてもらえるはずの日の失態だった。 まともな料理すら作れるようになれなかった。そんな自分への失望も多少はあった。 けれど、強く憧れ、何よりも大切に思う師匠を、私は生まれが卑しい人物だと、どこか下に見ていたということに気付いてしまったのだ。 そのことは私自身の根幹を揺るがすほどの大きな衝撃だった。 師匠の作品の素晴らしさは周知の事実だが、師匠の人としての素晴らしさを最も理解しているのは自分だと思っていた。 私よりももっと師匠と古い付き合いの人間などいくらでもいる。 そんな人たちには、うぬぼれだと言われるかもしれない。 側にいたのはたった二ヶ月だ。 それでも、私が一番師匠の心に近づけたのではないかと思っていた。 弟子入り当初は、どんな理不尽な扱いを受けても頑張っていくのだと肩肘を張っていた。 けれど、師匠は偉ぶることも無く、優しく私を指導し、見守ってくれた。 その優しさに、甘えすぎていたのかもしれない。 工房に来た当初、田舎の生活に驚いた。 床に直に座り物を食べること、師匠が寝台と呼ぶただの板でしかない質素なベッド、火の調節の利きにくい竈、シャワーどころかバスタブすら無い入浴。 今ならわかる。 その驚きの中には当然のように、良くこんなところで生活できたものだという、侮蔑に近い感情が交じっていた。 そして、今、『味見』という作業の解釈によって、私の傲岸不遜な内面が暴かれた。 にもかかわらず、師匠を見れば、私の無礼など大して気にした様子もなかった。 つまり師匠にとって、この程度の私の無礼はいつもの事だということに違いなかった。 そしてこれまでの自分を思い返し、無意識のうちに職人という仕事や元農民である師匠を侮り、自らの考えや生活様式を押し付けていたことに気付いてしまったのだ。 私がここでの生活のことが全くわからなかったように、師匠は王都では当たり前の物や流行などには全く疎かった。 師匠のために何かしたいという気持ちで色々持ち込み、世話も焼いたが、本当にそれだけだったろうか? 都風のことなど何も知らない田舎者へ、都の風習を見せ、驚かせたいという幼稚な心がなかったか? 私自身はそのつもりは無いと思っている。 けれど、やはり師匠の驚く顔を見たかったのは確かだ。 私はどれだけ師匠に不快な思いをさせてきたのか。 私は自分が許せなかった。 気付いたら、師匠の前に伏して肩を震わせていた。 顔をあげろと言われても直視することが出来ず、涙をこぼすのを耐えるばかりで、あげくの果てに工房を飛び出してしまった。

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