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第11話

谷あいの工房に戻って一年。 敬愛する師匠のもと、充実した修業の日々を過ごしている。 工房に戻ってすぐ、私は住まいを工房そばの改装済みの家へと移した。 移り住むにあたって、師匠にも同居を勧めた。 初めは遠慮をしていた師匠だが、半ば強引に転居を決めてしまえば、しょうがないなといった風に共に暮らしてくれるようになった。 しかし私は、工房の居室より良い環境なのだから、師匠が喜んでくれて当然で、断るはずがないとどこか思っていた。 このことによって、諸々反省はしても、生まれてこのかた身に付いた貴族意識や傲慢さがすぐに消え去るはずもないということにまた気付かされた。 たとえ狭く汚くとも、工房の居室に師匠は愛着があったようだ。 それでも王都の職人によって便利に改装された家は格段に居心地がよく、師匠も充分満足してくれているようだった。 より快適な生活環境で修業と師匠の世話に励む。 新しい住処には、バスタブのついたシャワーもある。 するとなぜだか、今さらのように師匠が入浴の手伝いを遠慮をするようになってしまった。 私としては、より世話がしやすくなったと思うのだが、師匠は入浴が楽になったから、私の手伝いは要らないと言う。 けれど、これは馬の世話に次いで私の得意とする作業だ。 すこし強引にだが、お世話を継続させてもらっている。 上達した私の料理で師匠の肉付きが良くなっていくのも嬉しい。 以前は肉が薄過ぎて、骨の出っ張った箇所がすれてガザガザとした痣となっていたが、それも今ではかなり薄くなった。 まだ少し細いが、ふれれば折れてしまいそうな怖さもなくなり、骨に張り付いているようだった肌も嬉しくなるくらいすべらかだ。 一度、師匠が申し訳無さそうな顔で、 「たまには、俺が……」 と、言いかけて口をつぐんだことがあった。 師匠が言いかけたことはすぐにわかった。 『たまには俺が、クロムを洗ってあげようか』 その内容もさることながら、言いかけて恥ずかしそうに目を伏せた師匠の素振りに、私の心臓は信じられないくらい暴れた。 師匠に弟子の世話を焼かせるなんて、ありえないことだ。 けれど、それを置いても、師匠にあんな恥ずかしげな顔で、私の身体を洗われたとしたら……。 身体が熱くなり師匠を洗う手が震えた。 それまで考えたこともなかったことだ。 そして、考えてはいけないことだと、頭の奥で警告が繰り返される。 しかし……。 私の身体を洗わせるわけにはいかないとしても、慎ましやかに恥じらう師匠の顔をどうにか再び見れないものか。そんな欲が満ちていくのを止めることは出来なかった。 修業はと言えば、師匠の元で努力を重ね、許しの条件として提示されていた『バタフライクリップ』をどうにか作れるようになっていた。 とはいえ、製品として出せるレベルではない。 それでも、拙いながらも師匠の彫金の助けとなれる最低限の技術は身につけ、これから一人前となれるようさらに腕を磨いていこうと気力は増すばかりだ。 そうやって、充実した毎日を過ごしていたが、少し気になることがあった。 師匠が請け負った装飾品の中に、どうやら私の目につかないように制作を進めているものがあるようなのだ。 初めは技術的なことで、見せたくないのだろう思っていた。 しかし、数ヶ月前からオーダーにも同行させてもらえるようになったにも拘らず、その中で二件ほど挨拶はさせてもらえたが、打ち合わせには立ち会わせてもらえない案件があったのだ。 一件は男性で、もう一件は夫婦での発注だった。 そして受注した内容も教えてもらえず、当然制作の様子も見せてはもらえなかった。 そんなぼんやりとした違和感が、明確な疑問となったのは、物置部屋の試作品を置く棚に、鍵の付いた箱を発見してからだった。 私が勉強のためにと、この部屋にある過去の製品や試作品をさわらせてもらう許可をもらうまでは、箱に鍵など付いていなかったはずだ。 その箱について聞いてはみたが、師匠は微妙な顔をして言葉を濁すだけだった。 そして今日、急に師匠が顧客に呼び出され、王都に出かけることになった。 行き先は、例の謎のオーダーをした男の屋敷だった。 師匠は道具を持って向かったので、過去に納品した品に調整が必要となったのだろうと思った。 その男が先日発注した品の制作の様子は見せてはもらっていないが、制作中の製品と試作品がどこに置いてあるかというのはわかっていた。 その棚には鍵などかかっていない。 私が勝手にさわるはずはないという、師匠の信頼だろう。 だが私はその発注者の男のことがどうにも気に喰わなかった。 官吏をしていた時に顔は見知っていて、紳士的な男性だと思っていたが、屋敷で見た彼の私的な顔は少し印象が違った。 自分の屋敷で職人という身分の低いものを相手にし、本性が出たのだろう。 なんともねちっこく、イヤらしい目で舐めるように師匠と私を見ていた。 今もあんな男と師匠が二人きりでいるということが我慢ならない。 すぐにでも師匠の元に行きたいくらいだが、ただの弟子に過ぎない私を、屋敷の使用人が二人の元まで通してくれるはずもない。 ——もし過去にあの男になにか不快なことをされた前歴があるなら、師匠が何度もオーダーを請けるわけはないだろう。 そうは思うが、しかし師匠と一年と少し共に暮らして、そう安心していられないことも知っていた。 師匠は職人としてコツコツと働き詰めで、どうやら色事にはまったく疎いようなのだ。 ふもとの飲み屋で伝え聞いた情報を総合すると、いちおう過去に女性経験はあるようだが、昔いた工房の先輩に連れて行ってもらった娼館で筆卸を済ませたというだけのようだった。 恋愛に至っては、幼い頃によくお菓子をくれた近所のお姉さんに憧れていたというのが精々で、こちらは直接師匠にも聞いてみたが、どうやら本当にそれ以上の経験がないようだ。 そういう私も職人になることを許してもらうためにずっと勉強づくしで、きちんとした恋人を持ったことはない。 とはいえ、ドロドロとした話を耳にしやすい宮勤めをしていたため、色恋の知識や人の見る目はそれなりにあるし、言寄られ、駆け引きなどされることもあった。初心(うぶ)な未経験者というわけではない。 貴族の中にあっては目をひく容姿でもないが、優秀と言われる部類でガツガツしていない分、どちらかと言えばモテていたという自覚もある。 そして私が見る限り、師匠はあの男に性的な嫌がらせを受けている可能性が非常に高いように思えた。 ただ、それを師匠は気付いていないのか、それとも気付いていて我慢しているのか。そこはわからなかった。 まさか喜んで受け入れている……なんて事は……。 そう思っただけで、乱れていた心がさらに荒れてしまった。 男の元から帰ってきた師匠は、何事もなかったような顔をしていた。 しかし、私の疑いも、心も、全く晴れることはない。 さも勉強のためというふうを装い、師匠に今度私にも顧客の採寸をさせていただけないものかと頼んでみた。 師匠は私の向上心を喜んで、検討すると約束してくれた。 「装飾品は女性からオーダーをいただくことが多いですが、いきなり女性というのも緊張すると思いますので、どうせなら今日、師匠がお伺いした男性の採寸をさせていただけませんか?」 もっともらしい事を言うと、師匠が慌てた。 「いや、クロムにそんなことはさせられない!他にちょうどいいお客さまのオーダーがあった時に考えるよ」 その言葉に私は思わず眉をひそめたが、師匠は気付いていないようだった。 その日すぐに私は行動を開始した。 『クロムにそんなことはさせられない』などと師匠に言わせるような採寸を元に、あの男が何を作らせているのか。 勝手に試作品や制作中の品をあさるなど、師匠の信頼を裏切る行為だ。 そうだとしても、私は知りたかった。 あの男の発注した品を見たければ、師匠が席を外している隙に、いつも師匠が制作物を保管している棚を覗き見るだけでいい。 そして、私にとってそれはとても容易いことだった。 心を決めてしまえば、躊躇することも無い。 そっと棚の扉を開いた。 製作中の装飾品が、ビロードを張った箱に置かれ並べられている。 その中に、私の見たことのない品があるのがすぐにわかった。 けれど………。 それを見ても何故師匠が私の目からそれを隠そうとするのかがさっぱりわからなかった。 それはただのマドラーだった。 しかし、少し形が変わっている。 柄がかすかにねじれた形状の二十五センチ程度のマドラー。 先端はぷっくりとだ円になっており、柄の途中には金属の輪が付いていて、持ち手には優美な蝶で装飾されている。 きっとこの蝶も『バタフライクリップ』と同じように温度によって動き出すのだろう。 なぜこれを師匠が隠したがるのか。 理解に苦しむ。 私は師匠が戻ってくる前に何喰わぬ顔で作業を再開した。 けれど頭の中は、あのマドラーを隠す理由は何なのか……ということで占められていた。 やはり他の試作品も見なければわからないのかもしれない。それらはおそらく物置部屋の試作品棚のあの鍵のついた箱の中だ。 箱の鍵まで開けてしまえば、さらに師匠の信頼を裏切ることとなる。 しかし……師匠のことだから、鍵はちょっと探せば簡単に見つけられるに違いない。 先ほど覗いた棚か、今は休憩室となっている以前の居室のどちらかだろう……。 あのマドラーを隠すのは何故なのか。その理由の一端でも探れないものかと、師匠に発注者の男のことについて聞いてみた。 製品については語ろうとはしなかったが、人物についてはなんのよどみもなく教えてくれた。 どうやら付き合いはかなり古いらしく、工房を立ち上げ、あまり仕事もなかった黎明期に、彼からかなりいい金額で複数のオーダーがあり、そのおかげで工房が軌道にのるようになったのだそうだ。 その後、一度に請ける数は減ったものの、年に一度は必ずオーダーが入り、現在まで付き合いが続いているらしい。 師匠が彼に恩を感じているのはわかった。 けれども個人的に彼自身をどう思っているのかまでは探れなかった。 あの男に対峙する師匠は、舐めるような視線など意に介さず、仕事として一線を引いているように見えた。 けれど、いざ二人きりになった部屋内であの男に一体どんな扱いをされているのか、私には良くない想像しかできない。 私とともにあの屋敷に出向いた時は、心配するほど長い時間二人きりでいたわけではなかったと思う。 けれど、何かあるのに短か過ぎるということもない。 私の頭は師匠とあの男のことでいっぱいになってしまった。 そんな様子は師匠にもすぐ知れる。 官吏であった頃は鉄壁の造り笑顔もできたが、師匠の前では表情をつくるという事自体を忘れがちだ。 私と師匠の間に、あの男の存在が不穏な影を落としていた。

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