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第4話
翌日から佐月の様子が変わった。
蒼哉がテナント回りを終えて事務所に戻って来ると佐月は自席で事務作業をしていた。時刻は定時になるころだった。残業を良しとしない社風であり、定時上がりをする社員は多い。蒼哉は帰宅の準備をしわざとらしく机の上に鞄を置いた。
「お疲れ様でした」
挨拶をしたのは前の席にいる日笠だった。
「お疲れ様です。日笠さんも上がりですか」
日笠も机の上に広げたものをデスク内に片付けて帰宅の準備をしているところだった。日笠は滅多に残業をすることはない。
「ええ、今日は私が夕食当番ですので、下のスーパーに寄って帰ります」
日笠は昨年結婚をし、一児の父である。職場で浮いている日笠と奥様がどう出会い、どう愛を育んできたのか、蒼哉には想像ができなかった。ただこうして残業せずに直帰する姿に、家庭を大事にしている良き父であることは予想できた。
「日笠さんすいません。お帰りの前に企画書、目を通してもらってもいいですか？」
「ああ、そうでしたね」
佐月は立ち上がると机越しに日笠に書類の束を渡した。日笠はスピーディに書類を捲っていく。
「木梨」
「はい」
日笠が読み終わるのを待っている佐月に話しかけるとようやく向かい合うことができた。
「俺に言うことはないか」
「お疲れ様です」
あっさりとした挨拶に蒼哉は鞄を持ったまま立ちつくし佐月を睨んでしまう。
おかしい。
先週までは蒼哉を毎日食事に誘っていたというのに、売上を上げる約束をした後、佐月のアピール攻撃はすっかり鳴りを潜めてしまったのだ。
仕事も蒼哉とコンビを組んで回ることが多かったのだが、ここ数日は蒼哉に同行せずにひとり事務所に籠ることや、ビルの外に出かけていることもあった。毎日残業しているようで、欠伸をこぼすこともあった。
付きまとわれて迷惑していた蒼哉にとっては喜ばしいことのはずなのだが、釈然としない。懐かれていた犬に突然愛想を尽かされてしまったような喪失感がある。
もしかして他に尻尾を振る相手ができたのか？
不機嫌さを丸出しで佐月に粘着質な視線を送ってしまう。
「木梨さん、このページは入れ替えた方がいいですね、目を通す順番を考えて。それから立地条件に競合他社がいないことをアピールするために地図を入れるといいのではないでしょうか」
日笠は眼鏡を上げて企画書を佐月に返した。
「分かりました。すぐに直します」
「先方との打ち合わせはこれからですか？」
「ええ。この後、見学にいらっしゃることになりました」
「残業ですか。頑張ってください」
日笠は口元を緩めると、早々に帰宅してしまった。
「木梨、一体何してるんだよ」
残業してまで進めなくてはならない仕事は特にないはずなのに、佐月が所長や日笠とこそこそと何かをしていることは鈍い蒼哉でも感づいていた。
「僕は蒼哉さんとの夕食を諦めたわけではありません。食事に漕ぎつけるためにこちらを頑張っているところです。寂しいとは思いますが、早急に結果を出しますから待っていてくださいね」
こちらというのは仕事のことだろうか。確かに売上を上げたら付き合うと約束したが、佐月は本気で売上アップしようとしているのだろうか。蒼哉と付き合う……妊娠させるために？
蒼哉の右手を取ると佐月は指先にそっとキスを落とした。指の皮膚で柔らかな唇の感触を受け止め、蒼哉の背中に悪寒が走った。
「寂しくない！」
真っ赤になりながら佐月を振り払う。邪険にされたというのに、佐月は声を上げて無邪気に笑った。
「で、何やってんだよ」
「まだ秘密です。気を付けて帰って下さい。蒼哉さん」
蒼哉を見送る佐月には別れの寂しさと心から蒼哉を心配している優しさがあった。佐月に絆されたのか、蒼哉にも切ない感情が湧く。蒼哉は佐月を遠ざけたいと思いつつも、彼を嫌いにはなれなかった。佐月の愛情表現は一点の曇りもなく蒼哉に向けられていたからだ。思い返せば二十五年間、家族を除いて蒼哉をここまで好いてくれた人はいなかった気がする。
仕事に戻った佐月は蒼哉を振り返ることはなかった。
午後七時を過ぎるとＨＵＢの正面受付は閉まってしまう。夜間にビルを訪問するには裏手にある警備員室で入館許可書を貰わなくてはならない。蒼哉は警備員室で佐月と面会の約束をしている人物が来館するのを待ち伏せすることにした。顔見知りの警備員に警備員室の奥で作業をさせて欲しいと頼み身を隠した。
佐月が何をしようとしているのか、気になって直帰できなかった。
残業をすると言っていたが、蒼哉は疑っていた。自分ではない誰かと食事の約束をしているのではないか。仕事先の相手がその相手である可能性もある。もし女性が現れたら佐月と交わした約束は破談にしてやる。佐月との縁を切るいい口実になる。
スカートの似合う素敵な女性と青山のレストランで食事する佐月を想像して蒼哉は腹が立ち、なぜだか分からないが目頭が熱くなった。佐月がお付き合いの相手として女性を選ぶことは当然のことだ。彼が渇望している彼の子を宿すことは、どうあがいても蒼哉にはできない。
「こんばんは。管理営業部の木梨さんと約束をしている者です」
佐月の名前を聞き机に突っ伏していた蒼哉は起き上がった。警備員室から裏口受付のガラス窓の方を様子見る。当直の警備員が来訪者に記帳を求める、その内に内線で佐月に連絡を入れているようだった。
四十歳前後の紳士だった。ブランド物のスーツと腕に光る高級時計。優雅な笑みをたたえた顔つきからは現役ビジネスマンといった雰囲気を醸し出している。年齢に見合った大人の余裕と若々しさを兼ね備えた、まさにできる男といった風貌だ。
この紳士が佐月と約束をしている。若い女性が来ることを想定していた蒼哉は面を食らった。仕事の商談をすると言っていたのだから冷静に考えれば男性が来てもおかしくない。蒼哉は女性が来るものだと思い込んでいた自分が嫌になった。そして相手が女性でなかったことに安心してしまっている自分に気付いてしまった。
紳士は入館許可書を受け取るとビルの中へと入っていく。蒼哉は後ろ姿を追いかけることにした。紳士が記帳した名簿を盗み見ようとも思ったがいけないことをしているのではないかという罪悪感が邪魔をした。
エレベーターに乗り込んだ彼を見送る。止まる階を見張っていると佐月がいる二階ではなく地下二階で止まった。地下に何の用事だろう。蒼哉は階段で地下二階へと降りた。
日の光は届かないので昼夜同じ蛍光灯の明るさなのだが、夜の地下二階はしんと静まり返っており無気味であった。上も下も音が響きやすいコンクリート造りである。蒼哉は足音を立てないように注意しながら、紳士の姿を探索するとすぐに見付かった。そこには佐月もおり、紳士とふたり向かい合い書類を広げながら話をしている。
柱の影から様子を窺うが、何を話しているのかは分からない。聞き耳を立てることに集中していると振り返った佐月と目が合った。
「蒼哉さん？」
眉を顰めた佐月につられ、紳士も蒼哉を認識する。見つかってしまってはしょうがない、大人しく佐月の元へと近づこうとすると、佐月がものすごい勢いで首を横に振った。その動きに蒼哉は野球場にてキャッチャーのサインを全力で拒否する投手を思い出してしまった。
佐月のおかしな動きに、紳士は蒼哉がいることに気が付いた。
「マーベラス！」
紳士が日本語でない悲鳴を上げた。呆気にとられて挨拶を忘れてしまう。
「木梨くん。彼は？ とてもキュートな子だ」
大人の余裕を醸し出している紳士はどこへやら、鼻息を荒くしながら握手を求められ、蒼哉は促されるまま手を出してしまう。
「……同僚の束原です」
ため息をつきながら佐月が蒼哉を紹介する。
「束原くん、お会いできて光栄だよ。お近付きの挨拶にこの後一杯どうかな？ 僕の行きつけのバーを紹介するよ」
「はあ……」
初対面の紳士にこれほど積極的に誘われた経験はない。蒼哉が目を白黒させていると、不機嫌さを全く隠そうとせず佐月が蒼哉と握手する紳士の手を、虫を叩き落とすかのように平手打ちした。
「だから嫌だったんです。坂本さんと蒼哉さんを引き合わせるのは」
「大きな商談に接待はつきものさ。可愛げのない木梨くん相手ではつまらないから他の子を紹介してくれと何度も頼んだのに断られてね」
「遊びたいのならそういうお店に行ってください」
「分かってないな。僕は、取引先の、可愛い子と遊びたいんだよ」
坂本と呼ばれた紳士は佐月を無視しながら蒼哉に向かって爽やかに笑いかける。
「女性職員はいないと木梨くんから聞いていたけれど、こんなに可憐な可愛い男の子がいるじゃないか」
「蒼哉さんが可愛いのは紛れもない事実ですが、ダメです。近づかないで下さい。蒼哉さん、そのおじさんから離れて」
興奮の治まらない坂本と蒼哉の間に佐月が割り込み、隙あらば蒼哉に触れようとする坂本を追い払う。
佐月といい坂本といい、男の蒼哉が好きとはふたりとも頭がおかしいのか。突然やってきた嬉しくもないモテ期に蒼哉は苦笑いしか出ない。
「木梨、この方は？」
佐月の背中に問いかけると、渋々と坂本を紹介してくれた。
「はあ……この人は六鷹レンタカー関東開発本部店舗開発・部長の坂本さんです」
坂本は凛々しい顔に戻ると、名刺を差し出した。
「はじめまして、坂本と申します」
六鷹自動車といえば、日本人なら知らない者はいない自動車メーカーだ。その巨大企業の内、レンタカー・カーリース事業を一手に引き受けているのが、六鷹レンタカーだ。六枚の羽根を持つ鷹のマークがシンボルであり、坂本の胸元にはピンバッジが光っていた。
坂本の顔つきが変わる。
「木梨くん、君の企画書とても良かったよ。僕も先ほど駅から歩いて来たのだけれど、ここは駅近で競合店も隣り合わせていない。出店するなら穴場かもしれないな。車の保有台数はどのくらい置けるかな？」
「二十台はどうですか」
「んー……夏の繁忙期は台数増やせるかな」
「では三十台いけます。店舗はお客様がご来店しやすい一階に、改装工事の許可はすでに得ています」
坂本は口笛を吹いた。
「いたれりつくせりだな」
圧倒される蒼哉をとり残し、ふたりの商談は進んでいく。蒼哉は冷や汗が出てきた。ふたりの話を完全に理解できていなかったが、大きな金が動く予感に身体が痺れる。
「きっ、木梨、どういうことなんだよ」
佐月は人気のない駐車場に向けて大きく左手を振り上げた。スーツの裾がひるがえる。
「このガラ空きの駐車場に六鷹レンタカーの店舗を呼び込むんです」
「いいね。面白い。ウチに声を掛けてきて、三日でここまでの企画書を用意してくれたのは君が初めてだ。木梨佐月くん。あとは僕好みの接待要員を紹介してくれたらパーフェクトなのにねぇ。先日もメールで送って許可はいただいたがウチの要望書を置いていくよ。再度目を通してくれたまえ」
坂本は佐月に茶封筒を渡した。代わりに佐月からもらった企画書を皮の鞄に入れる。
「契約成立だと思っていいのですか」
「決まったら木梨くんだけでは人手が足りないだろ。束原くんもぜひ僕の担当になって欲しいな。夜の大人の付き合いをしよう」
「いい加減にしろエロ親父」
「ははは。木梨くんは手厳しいな。今日は大人しく帰るとしよう。正式な返答はまた後日に」
大物商談相手に悪態をつきつつも、佐月は頭を深く下げて見送った。小さく拳を握りしめる佐月は見たことのない男の顔をしていた。
坂本が見えなくなると佐月は緊張の糸が切れたのか脱力した。軽口を叩いてはいたが坂本は大物だ、商談を成功させなくてはならないというプレッシャーもあったのだろう。
「疲れました、少し休みたいです」
眉を下げてへにゃりと笑う佐月と駐車場から上階へ行くエスカレーターホールへ移動した。自販機と駐車券精算機が置かれているスペースにはベンチがある。この時間は誰もいない。蒼哉と佐月はベンチに腰を落ち着かせた。
佐月から企画書と要望書を取り上げて、蒼哉は目を通した。ビル近辺のレンタカーへの需要、他社の出店状況、ＨＵＢビル地下駐車場の活用提案、出店した場合の売上の見込み。三日で作ったとは思えない出来栄えだった。
「すごい。お前すごいよ。六鷹レンタカーが出店してくれたら、家賃収入跳ね上がるぞ！」
蒼哉は興奮を隠しきれない。今まで社員が知恵を振り絞ってきたが思いつかなかった家賃収入アップが現実的なものとなって目の前に広がっている。
「蒼哉さん」
「わっ、な、なに」
灰になった佐月が蒼哉の膝の上に倒れ込んできた。
「ここ数日寝不足なんです」
ごろんと寝転がり上を向いた佐月と目が合う。佐月の整った顔が自分の膝の上に来て、蒼哉は企画書を持った両手を所在なさげに彷徨わせた。
「少しだけ寝させて下さい」
消え入りそうな声で呟くと佐月は瞳を閉じてしまった。すぐに控えめな寝息が聞こえてくる。はらりと前髪が垂れ、近くで見ると目の下にはクマがあり憔悴しきっているのだと分かる。連日の残業は今日の坂本へのプレゼンのためだったのか。
普段ならば膝枕なんて言語道断許さない。
「お疲れ様、佐月」
頑張った佐月に敬意を表し、蒼哉は佐月の頭を撫でてやった。指を抜ける柔らかな髪の感触に蒼哉は穏やかな気持ちになった。安穏が蒼哉から素直さを引き出し、知らぬ間に蒼哉は佐月を下の名前で呼んでいたことにひどく驚いた。
佐月に対して女性と会っているのではないかとあらぬ疑惑をかけていたことを猛省する。佐月はＨＵＢのために、知恵を絞り商談を取り付けるという大仕事をひとりこなしていたのだ。駐車場を有効活用しようというところまでは誰でも思いつくかもしれない。けれどそこへレンタカーの店舗を誘致しようと動くことは誰でも実践できることではない。
「くそ、かっこいいじゃん」
日々の雑務で追われ、仕事の新たな可能性を追求しなかった自分がひどく格好悪く思える。佐月の営業としての能力は認めざるを得ない。同じ管理営業として、負けたくなかった。
寝顔の佐月は長いまつ毛が際立って、幼く可愛く思えた。愛想がよくて仕事ができ、見目麗しい佐月が蒼哉の膝の上で眠りこけている。
「なんで俺がいいんだか」
冴えない職場の先輩、しかも男を妊娠させたいだなんて、馬鹿げている。
男の膝の上は寝心地が悪いだろうな、と申し訳ない気持ちになるが、幸せそうな佐月の寝顔を見ているとこのまま寝かせてやりたいと思った。
長いため息をついて、蒼哉は坂本が持ってきた要望書に目を通す。
するとある項目で目が留まった。
蒼哉の顔色が瞬く間に青くなる。確か坂本は要望書の内容に関しては許可をいただいたと言っていたはずだ。ということは、要望書に書かれたことをＨＵＢは実現しなくてはならない。
「きっ、木梨！ お前、これどうするつもりだよ！」
寝ている佐月の頭上で、蒼哉は要望書をばらまきながら半泣きの叫び声を上げたのだった。
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