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第5話

 駅からバスで十分。森林公園が隣接する区役所には連日多くの人が訪れる。様々な手続きをしに来る区民や、仕事で来所している人と何人もすれ違い、受付を済ませて蒼哉は窓際に並ぶ待合椅子に座わり名前が呼ばれるのを待った。蒼哉だけでも手続きは済ませられるが、無理やり佐月を連れてきた。HUBを運営していく中で区役所に申請をしなくてはならないことは少なくない。条例の勉強をさせるために連れてきたのだ。  今回蒼哉が訪れたのは街づくり支援部土木施設管理課である。 「HUBさん、お待たせしました」  カウンター席に促され、出迎えてくれたのは白髪の初老男性であった。これまでに何度か蒼哉は彼にお世話になっている。  担当者は受付の際に蒼哉が提出した書類を机の上に並べた。屋外広告物許可申請書、デザイン図、設計図などだ。 六鷹レンタカー出店の条件としてビルの屋外に店舗看板を設置することがあった。看板がなくては営業していることを利用者にアピールできない。また来店者に店の位置を知らせるためにも必要不可欠である。店舗が看板を出したいという気持ちはよく分かるし、利用者にも必要なものだ。 しかし、その前には区の条約が立ちはだかるのだ。 地下駐車場で大口の商談をし疲れ切った佐月を叩き起こして、蒼哉は説教をした。 「まちづくり景観に関する条約というものがある。駅前の外観節度を守るために、近隣の建物は広告看板を設置できる面積が決められているんだ。HUBはすでに入居店舗の広告だけで上限面積いっぱいなんだよ」  寝起きの佐月は目を擦りながら、頭を捻った。 「じゃあ、六鷹の看板は設置できないってことですか? どうしましょう……僕、坂本さんに許可出してしまいました」  佐月の顔色が悪くなり、すがるような目で蒼哉を見つめる。捨てられた子犬のようで蒼哉はそれ以上強く叱れなかった。 「条約はどうこうできない。既存店と六鷹さんに相談するしかないか」  蒼哉は小さな顔を両手で平手打ちし、気合を入れた。  看板が出せないだけで契約破棄になってしまうことは避けたい。佐月が引き寄せた大きなチャンス、どうにかして条件をクリアさせたい。佐月の成し遂げようとしていることはHUBの悲願であり、蒼哉にとっても実現させたい夢となっていた。 「条約が絡む看板は俺がなんとかする」 「蒼哉さん……」  佐月がパッと明るい表情になった。目に見えて喜んでいる佐月に頼られていると思うと悪い気はしなかった。  こうして蒼哉は各所に交渉し、試行錯誤をした上で看板設置の許可を得るためにおまけの佐月と共に決戦場である区役所に殴り込みに来たのだった。 「束原さん、これはどうなんでしょうか」  設計図を見ながら担当者は首を傾げる。突っ込まれることは承知でやって来たのだが、いざ担当者を目の前にするとノミの心臓が顔を出す。  デザイン図には畳一枚の大きさの看板が描かれている。上部には六鷹レンタカーの文字と六枚羽の鷹のエンブレム、下部には店舗入り口を示す矢印。 「このサイズはアウトです」  看板の総面積を現在の設置済み看板の面積に足すと条約規定面積を超えてしまう。  ここぞとばかりに、蒼哉は笑顔でデザインの図面を指さす。 「この下の矢印は広告ではなく誘導表記です。誘導表記は広告面積には含まれません」  矢印の面積を含まなければ、条約規定面積内におさまる。蒼哉の言い分は条約の足をすくう小癪な案であった。  だがこの作戦を実行するために、蒼哉は現在のHUBの広告面積を洗い直し、坂本に頭を下げて看板表記内容を譲歩してくれるよう頼んだ。交渉中にも三分に一回隙あらば食事やゴルフに誘ってくる坂本をあしらうのは骨が折れた。 「お願いします」  後は熱意しかない。蒼哉は気持ちを込めて頭を下げた。隣にいた佐月も蒼哉に倣う。  若者二人に訴えかけられ、担当者は大きく息を吐き出した。 「可愛い新人だった束原さんが随分やり手になってしまいました。正直これはグレーなところです。ですがこのデザインの矢印は確かに広告であると断定はできません。今回のところは束原さんの頑張りに免じて、申請承りましょう」  担当者は広げた書類を束ねて、笑顔を見せた。 「あ、ありがとうございます!」 「蒼哉さん」 「バカやめろっ」  感極まった佐月に人前にも関わらず抱き付かれ諌めるが、強く振り払わなかった。喜ぶふたりに担当者ははじめ驚いた顔をしたが温かく見守ってくれた。これで六鷹出店の障害をひとつクリアできた。佐月が整った顔をくしゃりとほころばせ笑う姿に、少しは彼を手伝うことができたかなと思えた。 久しぶりに感じる仕事での達成感。佐月は蒼哉に仕事のやりがいを思い出させてくれた。  区役所からHUBへバスで戻る。行きと同じ風景であるのに行きかう人々や自動車が活力に溢れ賑やかに見えた。  バスの中、当然のように二人掛け席に並んで座り、蒼哉の太ももと佐月の太ももが触れ合う。文句のひとつでも言ってやろうかと思ったがやめた。看板設置の許可を得て盛り上がっているところ水を差すことはしたくなかった。 「蒼哉さん。僕のために本当にありがとうございます」 「お前のためじゃねーし……」 「でも蒼哉さんがこうして手伝ってくれて嬉しいんです。これで蒼哉さん妊娠に一歩近づけたかと思うと感無量です」 「ちょっと待て六鷹出店はビルの売上向上のためにやってるんだよな?」 「いえ? 僕は蒼哉さんとの約束のために仕事しているだけです」  躊躇なくさらりと言い放つ佐月に蒼哉は脱力した。寝ずに企画書を作り、各所と面倒な交渉をこなすことが、すべて蒼哉を手に入れるためにやっていることだというのか。ありえない。 「木梨って出世欲ないの?」 「特に」 「やりがいは感じない?」 「求めません。ああ、でも仕事で成果を出すことで蒼哉さんを妊娠させられるなら、仕事もいいものかもしれません」  蒼哉には真似できない営業力を迷いなく恋愛のために振りかざす佐月が癪に障る。 「お前やっぱり別の席座れよ、空いてるんだから」 「えーっ、蒼哉さんの隣がいいです」  正面口からビルに入る。一階ロビーは三階まで吹き抜けになった解放感のある造りだ。平日昼間のHUBは入居テナントの社員たちが忙しなく行き交っている。大きな仕事を終えて、蒼哉には毎日見慣れているHUBが誇らしく見えた。 蒼哉は二階の事務所に戻る前に一階にあるコーヒーショップでテイクアウトを頼んだ。 「束原さん」  コーヒー片手に戻ろうとするとオフィスビルには似つかわしくない、白のシフォンスカートを着た女性に呼び止められた。まだ小さな赤ん坊を抱いている 「あ、日笠さんの奥さん」  彼女は昨年まで本社受付に勤務をしていた。会社の顔であった美人の彼女にはファンも多かったが、電撃授かり婚をしてしまい、社内に衝撃が走った。蒼哉は特に彼女と交流する機会はなかったが、本社を訪れる時は彼女の顔を見ることを楽しみにしていた。社内アイドルの彼女が結婚し、しかもその相手が地味で冴えない先輩の日笠であるというから驚きであった。 「こんにちは。佐月も久しぶりね」 「ええ、お元気そうでなによりです」 「束原さん主人を呼び出してもらえるかしら」 「分かりました」  蒼哉が内線で日笠を呼び出そうと受付へ行く間、彼女はとてもフランクに佐月に話しかけていた。一方の佐月は誰にでも愛想が良いのに、俯いてしまい珍しく浮かない顔だ。知り合いなのだろうか。佐月は昨年度まで本社勤務であったのだから彼女と顔見知りでもおかしくない。  なんだか胸騒ぎがして、蒼哉はコーヒーを一気に飲み干した。  内線で直接日笠のデスクに電話すると、すぐさま日笠が二階からやって来た。日笠と佐月は交代し、蒼哉とふたりで正面の二階へ続くエレベーターに乗った。その間も佐月は日笠夫婦を見つめている。区役所から帰る道のり、諍いつつも蒼哉さん蒼哉さんと纏わりついていた佐月が静かになり違和感しかなかった。エスカレーターを降りると二階から一階受付を見渡せる場所で、手すりに手をかけ佐月は足を止めた。  無愛想な日笠が妻と赤ん坊相手に父性溢れた柔らかい表情をしている。幸せそうな家族のかたちがそこにあった。 「木梨?」 「彼女と僕は付き合っていたんです」 「えっ。もしかして前に妊娠してふられたのって」  蒼哉は日笠の妻を凝視してしまった。アイドルであった彼女が日笠と佐月、ふたり同時に付き合っていたというのか、彼女のことを純潔の美人だと思っていた蒼哉は信じられない思いだった。 「そのこと日笠さんは知っているのか?」 「彼女が何も伝えていないならば、知らないと思います」  胸が詰まる。佐月は日笠に事実を告げ口することもなく、仕事とはいえ平静を装って接していたのだ。  日笠が家族の話をする時、佐月はどんな思いで聞いていたのだろう。  彼女に抱かれている子供の頭を日笠が撫でると、子供がぐずり出し彼女は揺らしあやす。父親をしている日笠は見ているだけで微笑ましい。日笠は知らない。その幸せの裏で佐月が傷ついているということを。  もし、自分が同じ目にあったとしたら、佐月のように何も言わずに堪えることができるだろうか。蒼哉には無理だと思う。日笠や彼女に恨みを抱き腹いせに嫌がらせをするかもしれない。日笠と同じ職場で働くことは拷問のように感じ、退職願を出しているかもしれない。 「もしかしたら、僕があそこにいたのかもしれない。日笠さんではなく、僕が」  手すりを握る手に力が入る。佐月は目を瞑り切なそうに呻いて、そばにいる蒼哉を思い出ししまったという顔をした。 「すみません。蒼哉さんに言うことじゃなかった」  日笠一家が掴むはずであった未来であったとしたら、焦がれるのは当然だろう。  同時に佐月が妊娠に固執している気持ちも分かった気がした。  無理をして笑う佐月を見ていると、苦しくなる。 「佐月……」  蒼哉は一歩を踏み出し、佐月の隣に並んだ。 「お前が彼女たちにふられた理由、なんとなく分かったかもしれない」 「えっ」 「優しすぎるんだよ」  手すりに両肘を乗せ、蒼哉は背中を丸めた。  佐月に見初められて数週間、抱えきれないほどの愛情表現を貰った。好きだ好きだと迫られお姫様のような扱いを受けて女性ならきっと誰でも喜ぶだろう。 仕事に取り組むのは恋のためと言ってのけた佐月だ。何事よりも恋人を優先してきたのだろう。けれど優しくされればされるほど人は不安になることがある。その内に佐月の本心が見えなくなり、佐月との未来を描けなくなる。佐月は夢の中の人。現実を求めて彼女たちは他の男性に目を向けるのではないだろうか。二股をしても許されると思われていたのかもしれない。 「優しく、してきたつもりです。僕は僕なりに彼女と向き合えていると思っていた。でも本当の彼女の気持ちは何も理解していなかった。理解しようとしなかった。だから僕は選ばれなかったんです」 佐月は妊娠した彼女を強引に引き止めようとはしなかった。自分が諦めることが彼女たちの幸せだと思ったのだろう。 彼女たちは、佐月ならばあっさり別れられる、そう考えていたのだろうか。佐月が傷つくとは思わなかったのだろうか。  佐月ほど一途で恋に真っ直ぐな人に出会ったことはない。純粋で優しくて、報われない佐月。  掴みたかった幸せを目の前に立ち尽くす佐月の横顔に、蒼哉は泣きそうになった。ここが勤務先のロビーでなかったら、人目がなければ、佐月の頭をそっと撫でてやりたかった。 「手を握ってもいいですか」  佐月の申し出に蒼哉が躊躇していると、長い手が伸びてきて右手を握られた。繋がった手のひらから佐月の体温が伝わってくる。  誰かに見られ、怪訝に思われないかひやひやする。 「蒼哉さん、離さないで」  戸惑いを見透かされたのか、佐月が縋るような声で囁いた。 「蒼哉さんに僕はどう映っていますか。知りたい。でも知るのが怖い。どれだけ好きだと言っても相手に届かないと僕は知っている。僕の愛は誰も満たせない。欠陥品なんです」 「バカ。何言ってんだよ」  握られた手を強く強く握り返す。 「好きだったんだろ、大事にしてたんだろ。お前の愛は本物だよ」 「そう、やさん……」  佐月は瞳を潤ませて唇を噛んだ。きっと誰にも話したことはなかったのだろう。 佐月の心の傷に触れ、蒼哉に芽生えた感情は戸惑いだけではなかった。手を繋ぐことで傷ついた佐月を少しでも癒せるのなら、繋いでいてやりたい。  溢れんばかりに人を愛し尽くすくせに、愛した人に逃げられてばかりの可哀そうな佐月が蒼哉を求めるというのならば、応えてやりたいと思った。  佐月を幸せにしてあげたい。 「本当は今すぐキスがしたい蒼哉さんが嫌がって逃げようとしても離さないその小さな口を窒息しそうなほどにふさいでやりたい」  早口で息継ぎもせず黒い欲望を吐き出した佐月に蒼哉はがくりと項垂れた。  蒼哉は佐月と同じ意味合いで彼に惹かれていることに気づいた。  甘酸っぱい感情に心臓がぎゅっと小さくなる。  けれど、どんなに愛を囁かれてもどんなに愛情を注いでも、佐月が真に求める幸せのかたちを蒼哉は与えてやれることはない。  それは恋に目覚めた蒼哉に暗い影を落とした。

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