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第6話
金曜日。六鷹と正式契約を結ぶ約束の日。朝礼では所長から佐月へ激励があった。社員たちは佐月の功績に尊敬と羨望の眼差しを送った。
蒼哉と共に作った契約書を持って、佐月は昼過ぎに六鷹レンタカー関東本部へと出かけて行った。契約合意までの交渉は十分に行った。後はサイン、社判をもらうだけであった。
レッドのネクタイにネイビーのスーツを身に纏った佐月は二割増しに格好よく仕上がっていた。蒼哉も笑顔で見送ったのだった。
だが三時過ぎに帰社した佐月の表情は沈んでいた。
「おかえりなさい。木梨、どうだった」
お決まりの文句で迎えた蒼哉はばっちりです、という返答があるものだと思っていたのだ。
佐月は蒼哉に応えず、所長のデスクの前まで行き、頭を下げた。
「私の力が至らず、今回の契約交渉は白紙になってしまいました。申し訳ございません」
動向を見守っていた社員たちからざわめきが起きる。
「木梨くんどういうことですか」
両手を組んだ所長は冷静に問う。
「先方から、いえ坂本氏から契約の条件を追加提示されましたが、その条件をHUBとして、いや私は受け入れられないと判断しました」
「まだ交渉の余地はあるのですか」
「分かりません。しかし他社と交渉しても良いという許可は貰いました。六鷹は無理でも呼び込める企業は他にあるはずです。六鷹が流れたとしても必ず結果は残します。今回は目を瞑っていただけませんか」
再び佐月は頭を下げた。六鷹ほどの大手を逃したとなったら、HUBには痛手だ。すでに改装工事の見積もりや日程調整も進んでいる。佐月と蒼哉がこの数週間取り組んできたことが水の泡になってしまう。
「今回の企画、六鷹との交渉は全て木梨くんが主導で進めてきたことです。木梨くんが見込みがないというなら、我々は諦めるしかないのかもしれません。しかし白紙になったというなら、もう一度描いていけばいいのかもしれません。冷静になって再度交渉してみましょう」
「……はい」
所長の説得に佐月は頷いて見せたが疲労の色が強かった。
自席で佐月と所長のやり取りを見ていた蒼哉はショックを隠し切れなかった。
事務所内スタッフの視線を全て集め、針のむしろとなってしまった佐月は事務所を出て行った。
蒼哉は弾かれたように佐月を追いかけ、事務所を出たところで佐月の右腕を捕まえた。
「待てよ、木梨どういうことなんだよ」
佐月は目を合わせようとしない。
「すみません。蒼哉さんには手伝っていただいたのに」
「何があったんだよ。坂本さんにむちゃくちゃなこと言われたのか?」
「すみません」
「佐月……」
佐月は口を閉ざしてしまう。きゅっと結ばれた口元には断固として言うつもりはないという拒否の意思が感じられた。
交渉は滞りなく進んでいたはずだ。蒼哉も何度か坂本と電話やメールでやり取りをしたが、契約には乗り気であったはずである。破棄になってしまったというなら納得のいく理由を教えて欲しい。
「言えないのかよ」
仕事を通じて佐月のことを相棒のように思い始めていたのに、何があったのかさえ教えてもらえないことが、悔しかった。相談してくれれば、協力して知恵を絞り突破口を開くことができるかもしれないのに。
佐月に信用されていないことが、役に立てないことが腹立たしい。
悔しさと悲しさ、混沌とした感情が巡り腕を掴む手に力が入ってしまう。その手を佐月に優しく握られ外されてしまう。
「頭冷やして、いいアイデア持って帰ります」
佐月はいつもの穏やかな顔で立ち去ってしまった。その背中はすでに次の野望へと向かっていた。
事情も分からない蒼哉は佐月のようにすぐに切り替えることはできない。
「束原くん」
いつから見ていたのか、日笠に後ろから声を掛けてきた。彼も蒼哉の向かい側の自席で佐月の報告を聞いていたはずだ。
「君は木梨くんの企画に協力的に取り組んでいた。納得いかないかもしれませんが、ここは木梨くんの決意を尊重してあげましょう」
元気づけようとしたのか日笠に肩を叩かれ、咄嗟に蒼哉はその手を乱暴に振り払ってしまった。皮膚を叩きつけるパシッと乾いた音が響いた。後輩からの思わぬ仕打ちに日笠は眼鏡の中の目を丸くする。
日笠は蒼哉が手伝っていた案件を佐月が白紙にしてしまったことに腹を立てていると思っているらしい。自分の頑張りが徒労に終わることも悲しいが、佐月の働きぶりを傍で応援していたのは蒼哉だ。佐月が夢のために積み上げてきたものをどうして一瞬で手放してしまったのか、その理由が知りたい。
日笠が佐月を半端な優しさで安易に擁護することが許せなかった。
「あなたにっ!」
分かってたまるか。
先輩を怒鳴りつけそうになり、蒼哉は懸命に自分を押し殺した。
日笠の結婚の裏で佐月がどんなに辛い思いをしたのか、それをきっかけに再度同じ目にあった佐月がこのビルから飛び降りようとしたことを知らない日笠がひどく憎く思えた。
「束原くん?」
唇を噛む。
いっそ全ての出来事を日笠にぶちまけて彼の幸せを壊してやりたくなる衝動を抑え込む。そんなことをしてしまったら、佐月がじっと堪えてきた努力まで無駄にしてしまう。第三者の蒼哉が暴露していいはずがない。真面目な日笠が真摯に受け止め夫婦間に亀裂が入ることも容易に想像できる。そうなったら清々するが、佐月はそんな展開を望まないだろう。
「……俺、六鷹レンタカーに行って来ます。木梨にミスがあったとは思えません。坂本さんに会って、考え直してもらえないかお願いしてきます」
「束原くん!」
日笠の制止を振り払って蒼哉は単身HUBを飛び出した。
蒼哉は走り出していた。スーツだから走りにくいだとか、どうせ電車に乗るのだから走っても意味がないだとか、すれ違う人に不可解な顔をされるだとか、関係なく衝動的に走った。
日笠に醜い感情をぶつけてしまった自分は最低だ。
だが、自分の中にまだ熱くなれる心があったことに蒼哉は驚いていた。
学生の頃は陸上で自分より強い選手に負けて悔しいと感じることや、好きだった女の子に彼氏ができ、枕を濡らすこともあった。
けれどいつの間にか悔しいと感じることもなくなり、諦めることが上手くなった。
手にしたい勝利成功のために、それ相応の努力をしなかったのだから、手に入るわけがない。自分には無理だと諦めることができたからこそ、蒼哉は平凡人並みの生活を送ることができた。
けれど佐月は違った。誰もが諦めていたことに目を背けず、ひとり立ち向かっていった。
夢を掴もうと、曇りなく立つ佐月は格好良かった。
駅に着く前に息切れで蒼哉は膝に手をついた。汗が全身をつたい流れていく。
ひたむきに頑張っている佐月の願いが成就しないなんてことは歯がゆくて切なくてやりきれない。
佐月の頑張りを結果にしてやりたい。諦めてばかりだった自分にどこまでできるか分からないけれど、ゴールまで導いてやりたい。だから蒼哉は走りたかった。
六鷹レンタカー本社は東京大手町にあった。六鷹の他の事業部も入居しているビルはガラス張りの巨体で太陽光を弾き返すほどにぎらぎらと輝いていた。
敵地への殴り込みに蒼哉は唾を呑み込んだ。
考えなしにアポイントを取らず来社してしまったのだから、坂本を捕まえられるまで何時間でも待つつもりだったのだが、受付で話を通すとすぐに上階へと通された。
廊下に物は一切置かれていない。パーテーションで区切られた簡素な事務所の一角が関東開発本部であった。本部長室は小さいながらに個室になっていた。
「やあ、束原くん。君が会いに来てくれるなんて嬉しいよ」
皮椅子にゆったり腰かけた坂本が歓迎してくれた。
「突然の来訪申し訳ありません。用件は分かっていらっしゃるかと思いますが」
「まあそうだね」
坂本はひょいと立ち上がると机から離れ、蒼哉が立っている横にある二人掛けの来客用ソファに座り、ソファの背越しに隣に座れと手招きする。
「こちらで結構です」
蒼哉が断ると坂本は大人げなく口を尖らせる。
「座ってくれないと、話はできないなぁ」
出会った時から一貫して坂本は公私混同している。隠そうとするつもりもないのでいっそ気持ちがいいくらいだ。佐月が坂本ほどの大物に対して大きく出られるのも、このだらしなさが年齢や立場のハードルを下げているからだろう。
仕方なく蒼哉は坂本の隣にちょこんと座った。小柄な蒼哉が座ってもソファはあまり沈まない。坂本は素早く蒼哉の背に手を回し距離を詰める。嫌悪感しかないが、単身乗り込んで来た時点である程度の覚悟はしていた。
「どうして破談になってしまったのですか」
「あれ? 木梨くんから聞いてないのかい? 僕はてっきり木梨くんから話を聞いて君が条件を受けると言いに来たのかと思ったよ。まあ、僕はどちらでもいいけどね。なんであれ君が来てくれたのだから」
「どういうことですか」
事情を聞かされていない蒼哉が怪訝な顔をすると、にこりと笑った坂本の右手が蒼哉の太ももを触った。反射的に蒼哉は身を固くする。
「社判を押すことと引き換えに、束原くんを一晩貸して欲しいと頼んだんだよ。束原くんの子猫のような可愛さと片手で捻り潰せてしまいそうな細さはとても僕好みなんだ。冷たく僕をあしらってくれるところもたまらないと思うよ」
「は?」
気に入られているとは思っていたけれど、まさかそんな異常な性癖の目線で値踏みされているとは思わなかった。今まで感じたことのない危機感を覚える。本能が早く逃げ出せと警告する。同性にこうして好意を向けられることは佐月で体験済みのはずなのに、好意の質が全く違うと感じた。
「木梨くん、怒ってしまってね。蒼哉さんを差し出すくらいなら契約はなかったことにすると言い出して、僕も焦ってしまったよ。いや、だって、僕だって判子を押すために君たちと交渉してきたわけだからね」
契約を結ぶついでに私欲も満たそうとしたのだから、どう考えても坂本が悪い。だがこれまでも坂本は同じ手口で良い思いをしてきたのだろう。そして誰かが坂本の私欲を満たすために犠牲になってきた。あるいは自らを差し出すことで恩恵を受けてきた者がいたのかもしれない。
「佐月……」
佐月があっさりと契約を投げ捨てた理由が分かった。蒼哉を守るためだったのだ。佐月を怒鳴って責めてしまった自分が恥ずかしい。
佐月のことを想うと胸が針で刺されたかのようにちくりと痛む。
「で、どうかな? 木梨くんには断られてしまったけれど、本当の僕の取引相手は君だ。君が頷いてくれれば今すぐ契約成立だよ」
坂本はぴらりと契約書を出し、ガラステーブルの上に置いた。ふたりで作った契約書面だった。
「いい顔だ。理性と欲望で揺れているね、束原くん」
坂本と一線を越えるなんて、嫌だ。
でも、契約が欲しい。
一晩我慢するだけで佐月の、HUBの悲願が叶う。
足元がガラガラと音を立てて崩れる。今、蒼哉が佐月のためにできることは――
「蒼哉さん!」
乱暴にドアが開け放たれ、蒼哉と坂本は同時に振り返った。
息を乱した佐月がソファの上で向かい合うふたりを睨みつけた。いつも穏やかな佐月から滲み出る怒りに蒼哉は呆気にとられた。
「蒼哉さんから離れろ」
大股で踏み込んだ佐月が坂本の胸倉を掴み上げた。
同時に警備員が二人踏み込んで来て佐月を後ろから羽交い絞めにした。それでも佐月は歯を食いしばり坂本を威嚇することをやめない。
「部長! 大丈夫ですか」
騒ぎを聞きつけた社員がやってきて、現場は騒然とした雰囲気となったが、坂本が手を叩いてその場を沈めた。
「はいはい、ごめんなさい。彼は客人だ、離してやってくれ」
坂本に促され、警備員は困惑気味だが佐月を離してくれた。
「佐月!」
再度坂本に飛びつくことのないように、蒼哉は坂本と佐月の間に入り、佐月に近づく。すると顔を歪めた佐月が人目をはばからず勢いよく蒼哉を痛いくらいに抱きしめた。
その間に坂本は手早く人払いをし、ブラインドを閉めて隣の部屋にいる社員たちの好奇の視線を遮断した。
「日笠さんが慌てた様子であなたが六鷹に向かったと教えてくれたんです。蒼哉さん、坂本さんの条件を呑む必要はありません」
蒼哉の意見を聞かずに決めつける佐月に蒼哉は頭にきてしまう。佐月の力になりたいと思っているのに、何もしなくていいと言われているようでムカつく。
「お前が決めるな。坂本さんと交渉しているのは俺だっ」
「なっ……」
「期待していいのかな?」
坂本が嬉々とした表情で返答を待っている。
「絶対にダメです。あなたが後先考えずにこんな馬鹿げた条件を受け入れると思ったから、僕は契約破棄したんですよ。僕の妊娠して欲しいなんて無茶苦茶な願いすら受け入れてくれた、優しいあなただから。感情を無視して坂本さんに跪く蒼哉さんを僕は見たくない」
「佐月……」
妊娠は無茶苦茶な願いって、自覚あったんだな……
思いがけず聞けた佐月の心情に蒼哉は驚き、冷静さを取り戻した。佐月の胸倉を掴み、言い聞かせる。
「俺だって佐月の役に立ちたい。お前が呼び込んでくれたチャンスを簡単に逃したくないんだよ。俺のこと思ってくれるお前の気持ちは嬉しいけど、お前は悔しくないのかよ。こんな条件出されるなんて、その程度としかHUBは見られてないってことだろ」
「蒼哉さん」
佐月は怒りを鎮め、屈んで蒼哉に視線を合わせる。
「蒼哉さんは僕よりずっと立派な営業マンですね。僕は蒼哉さんとの約束を果たして貴方を妊娠させたい。それだけだ。蒼哉さんを差し出して、間違って坂本さんに種付けされてしまったら……本末転倒です。だからこの契約が破棄になっても悔しくありません」
何千万と金が動く契約よりも、蒼哉を選ぶのだと、一点の曇りもなく言い切った佐月に蒼哉のぐちゃぐちゃになっていた迷いが晴れていく兆候があった。
「……ごほん」
坂本のわざとらしい咳払いに、ふたりだけの世界から現実に引き戻された。
今までの会話を全て坂本に聞かれていたと気付き、蒼哉は顔を真っ赤にした。今すぐここから逃げ出したい。
「木梨くん、束原くん。悪かった、僕の負けだ。条件は撤回するから許してくれ」
疲れた顔の坂本は契約書にあっけなく社判を押した。
「どういう風の吹き回しですか」
手のひらを返した坂本に佐月は疑いの目を向ける。
坂本は回転椅子に座ってため息をつく。
「僕の執務室で痴話喧嘩は勘弁だ。木梨くんが束原くんに執着しているとは気づいていたけれど、どうやら束原くんもまんざらでもないみたいだ。僕も両想いの恋人たちの仲を裂こうとするほど無情な人間ではないのでね。そのかわり家賃は年間九百万でどうかな?」
痴話喧嘩を見せつけられて降参したのは坂本であったというわけだ。紛れて家賃交渉をしてくるところは抜け目がない。
「ダメです。一千二百万です」
「当初より値上がっていますよ」
「蒼哉さんを交渉材料とし、苦しませた罪は重いですよ。それにHUBならば採算は合うほどの売上が見込める」
「やれやれ……木梨くんも立派な営業マンですね」
坂本が笑顔を見せるとサインをし契約書を差し出した。佐月が受け取り、蒼哉と顔を見合わせ、夢を掴んだという事実にふたりして小さく拳を握り喜んだ。
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