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[木綿] タヌキでいいです-1-

 俺にとって一番大事なことは、卒業するまで衣笠が笑って過ごすことだ。  その衣笠が笑っている。観光案内所のリーフレット配布棚に積まれた無料の情報誌の表紙を飾って、キラキラと笑っている。……それは、喜ぶべきことの筈だ。  普段と違う髪型。誌面に映っているのは俺の知らない衣笠だった。バイト先の、レトロなボーイの制服に身を固め、髪をワックスで整え、前髪を上げている。両手でハートを形どり、カメラ目線なのに少しはにかんだシャイなスマイル……ジュ○ンボーイにでもなったのか? コイツは。  記事の反響は想像以上に大きく、一気に客が増えたらしい。ほぼ毎日、開店の時間帯に合わせて出掛け、夕方にはヘトヘトになって帰ってくるけど、疲弊している様子はない。お気に入りの湯船の一番深いところで顔だけ出して、その日あったことを話しながら衣笠は笑っている。充実しているのだ。きっと。 「綿貫、知ってるか? 昨日の高野とケンちゃんの喧嘩の原因。あれってさー」 「ああ、あれだろ? ファンレターだかラブレターだか、メアドとケー番が書いてあるやつ。高野が自慢して回ってた」 「そうそれ! バカだよなー、見せびらかすなんて。同じ建物に恋人が住んでるのに、なんでバレないと思ったんだろ?」 「ましてや、相手は“あの”ケンちゃんだろ?」 「誰よりも執着心の強い、“あの”ケンちゃんだよな……」  昨日の騒動でガラスが割れなかったのは不幸中の幸いだ。ケンちゃんのヤキモチがMAX状態になるとどうなるか、寮中のみんなが知っている。  それなのに、高野はケンちゃんの目を盗んで、自らのモテ自慢を繰り返している。 「高野は元々モテ系だろ? 女子のメアドなんか珍しくないだろうに」 「他ならともかく、この寮で見せびらかしたって、誰も羨ましがらないだろうな。とりあえずみんなリア充だし」  あいつら全員、今更オンナに興味があるなんて素振りを見せたら血の雨が降るだろう。 「高野は馬鹿なんだな。手紙なんか、持ち帰らないで捨てるか、受け取らないかすればいいのにさ」  ……そうか。衣笠は何の戦利品も持ち帰らないなと思っていたんだ。そうやって処理してるのか。そうか、そうだよなぁ。高野より衣笠の方がお呼び出しが掛かるに決まってるもんなぁ(贔屓目)。  モヤモヤは残るけれど、察して黙る。俺はその件に関して意見が言える立場じゃないだろ?  衣笠は、夏季短期アルバイトの募集で採用されたはずなのに、夏休みが終わった今の方がむしろバイトに行く回数が増えている。一方、学生課に自転車を返却した俺は、なんの役目もないまま寮の自室で一人過ごしている。  床の上に置かれた例の情報誌を、一冊手に取る。  プロが手掛けるんだから多少の加工も入っているに違いない。完璧過ぎて『バキューーーン!』と撃ち抜く効果音でも付きそうなほどの、焦点バッチリのカメラ目線に釣られ、街中でコレを見かける度に手に取ってしまう。  ……衣笠、こうしてみると男らしいなぁ、でもって可愛いなぁ、でもいつもの顔じゃないよなぁ、眉毛いじってるのかなぁ、目元も強調されてないか? プリクラみたいだなぁ、と連日見かける度に手に取り、気付いたら俺の部屋に同じ冊子が1ダースは置かれている。  隣にぴったりひっついている高野が気に食わないのだが、それも始めの数日のうちだけ。今は自動的に脳内でトリミング機能が作動して、視界に入りもしない。  見れば見るほど、ここに映っているのは知らない人のような気がしてくる。前髪を無造作に下ろして、たまにダサい眼鏡を掛けて、緊張感とは無縁な表情でフニャフニャ笑っていてこそ衣笠だ。そこの食べかけのチーズ鱈の袋を、几帳面に空気を抜いてクルクル巻いて洗濯バサミで止めてから部屋に戻るのが衣笠だ。差し入れのトマト煮が意表をつく激辛でも、大汗かきながら無茶して食べ続けるのが衣笠だ。年代物の木の浴槽をあっちこっち移動しながら極楽極楽♪と浮かれているのが衣笠だ。  いるはずの奴がそこにいない。不在の存在感って、一旦気付いてしまうと結構重い。何枚にも印刷されたあいつの顔が却って本人の不在を際立たせる。  いつもの自分の部屋なのに、急に居心地が悪くて息が苦しい気がした。……くさくさする時は掃除に限る! 二重のカーテンを全部開けて窓を全開にし、床に散らばったものを一気に片付けた。

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