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[きぬ]壁ドンと顎クイ-3-

 高野から、綿貫が僕に抱いているのは友情じゃないと聞かされたのは夏休みの始めのこと。自分に好意を持ってくれていると知って、正直なところ嬉しかった。  でも、当の本人はちっともそんな話は切り出さないので、僕もいつしか安心してしまって、放置したまま。僕等は何も変わらない。  何も変わらない、は違うか。僕はガラリと変わった。自分に好意を持っている人がいる、と知った途端、なんていうか自分が強くなった。物凄い強力な援軍をを得たような気持ちになったんだ。  フリーペーパーの取材だって、以前の僕なら断っていた。  綿貫とああだこうだ言いながら暮らす毎日は、確実に僕を引き上げていく。男同士だし、恋愛云々はとりあえず置いておくとして、綿貫にとっての僕も、何らかの形でプラスになっていたらいいな。  無色のリップクリームだから、塗る時にいちいち鏡なんか見ない。新品の、冷たく固まったスティックを唇に押し当て、上下の唇をすり合わせて慣らす。ふと視線を感じて綿貫を見ると、慌てた様子で目を反らした。一度引いたはずの奴の頬がまた赤い。……僕ごときの口元を見ていたくらいで赤面すんなよな。  この程度のことで真っ赤になってる綿貫は、おちょくり甲斐があるんだよね。本人には言えないけど。ついついからかいたくなる気持ちは解る。  ベタなぐらいの壁ドンなんて、本当にお目にかかるとは思っていなかった。この寮の奴らはかなり大胆だ。少女漫画でもあるまいし、現実にやる奴がいるなんて。それもこんな身近に。  春に発生した公認カップルは、皆なんだかんだ上手くいっているらしい。カップルだらけの中に住んでいるんだから、綿貫みたいにいちいち反応していては暮らしていけないだろ? ましてやお前はバイトもせずにずっと寮に居るんだから。  誰がからかっても、赤面して睨んだりするんだろうか。焦って走り去ったり、挙動不審になったりして仔犬のような眼差しを見せるんだろうか。何かとちょっかい出してくるのはケンちゃんだけなのだろうか。僕がバイトに掛かり切りの間、こいつは寮で何してるんだろう……。 「もうちょっと免疫つけないと……なあ。」 「ん? 何の話?」  いや、何でもないよ。と誤魔化すと、拗ねたような顔で唇を突き出した。そしてまた間近で見たキスシーンを思い出したのか、慌てて顔を背けた。  ―――あ。  さっきと正反対で、今度は僕が綿貫の口元を凝視している。気付いたら無性に可笑しくて、自然とに目元がニヤけてしまった。  それと同時に、悪戯心が沸き起こる。  いちいち可愛らしい反応をされても僕が困る。ここはひとつ、荒療治も必要だよな。  ちょっとからかってやろう♪ ……そう思ったらワクワクしてきた。もたもたしていたら風呂の時間になってしまう。  作戦をすぐに決行しよう。  風呂の支度に一旦部屋に戻ろう、と、立ち上がった綿貫を見送る顔をして、部屋のドアまで一緒に行く。ドアを開けてやるフリで、一歩先に進む。  変な鼻歌を歌いながら、廊下用のスリッパを履く綿貫は、完全に無防備。……隙だらけだな、お前は。  スリッパをつっかけた綿貫が顔を上げるのが、作戦決行の合図! その顎を片手で捉え、気持ち上に引き上げた。いわゆる『顎クイ』ってやつ、な。  咄嗟のことで目を見開いて固まっている綿貫の唇に、僕のリップクリームをくるりと塗りつけた。  自分で仕掛けておいてこんなことを言うのも勝手なんだけど、慣れ親しんだフレンチバニラの香りが至近距離から立ち上るのが不思議だった。  ほらやっぱり。耳まで真っ赤に茹った赤タヌキの完成でーす。こういう漫画チックな行動、綿貫には刺激が強いんだよ。だからわざと、シレっとした声色で言ってやった。 「……乾いてるから塗っといた。」 「……お、おう!」  目的を達成し、予想通りの焦り方を見せる綿貫を堪能したところであっさり廊下へ送り出す。  真っ赤になっちゃってさ。ウブい奴め、くっくっくっくっ……  さて、僕も風呂の支度をしなくちゃね。建付けの良くない年季物のドアを静かにを閉めた。  からかってやろうと思っただけだった。  なのに、じわじわ来るこれは何だろう……?   誰も見ていないから、へたりこんだっていいだろ。まったく、綿貫の奴め! 綿貫の分際で!  これは一種の仕返しなのか? 一瞬で脳裏に焼き付いてしまったじゃないか。  ―――唇に触れる瞬間、反射的に目を閉じるのは反則だッ!! くそぅ。   <壁ドン編おしまい>

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