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第617話

ぼたぼたと雪が降る。 一晩で随分と積もった。 「隴西の李徴は博學才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔よしとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、かく略に帰臥し、人と交わりを絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。」 低く落ち着く声に耳を傾けながら窓の外を盗み見る。 色味のない景色に雪がキラキラと眩しい。 サッシの隙間から外気が入り込むが、室内のあたたかさにすぐに溶けた。 「しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。」 針葉樹の枝は上に積もる雪の重みで撓っている。 やがてどさりとそれを落とすと真っ直ぐに枝を伸ばした。 北国の植物は力強い。 「一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿つた時、遂に發狂した。或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻つて來なかつた。附近の山野を搜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。」 座席の間を縫いながら朗読する担任の声は心地好い。 やがて足音が止まると室内へと視線を戻した。 カツカツと響くチョークの音。 チョークを持つ男の手に何時も良いようにされあさましい姿を晒しているなど、自分と担任しか知らない。 そして、自分の姿も。 あ、汚れてる 大きい身を屈めて黒板の下方にも書き込む担任の尻が1部が白く汚れている。 前の授業で汚れた手で触ってしまったのだろうか。 長身に教壇も手伝って1番後の席からでも見えた。 次々と書き込まれる見慣れた文字をノートに書き写す。 ふと見詰めていると、くるりと振り返ったその人と目が合った。

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