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29.初めてのトラブル

 新年を迎え、二月も近い。風俗店はいわゆるソープやヘルスなど客が服を脱ぐ店は一般的に、一番寒い二月は客足が落ちる。覗き部屋も若干売り上げが少なくなるが、ほかの風俗店に比べてさほど大きくは下がらない。この時期ヘルスなどから、収入が年間通じて安定している覗き部屋に流れてくる者もいる。リスクが少ない分収入も減るが、それでも他のアルバイトよりは多く稼げる。 『X-ROOM』二号店はまだ開店間もなく、藍のように慣れていないキャストを二人ずつ出させることもあり、人手不足だ。それを補うために、アキが出演することもある。これも二月にキャストの数が増えてシフトが安定するまで、とアキは今日も出演する。  アキが出演する日は当然、花森が受付を担当しなくてはならず、休日返上の日もあるが、それでも花森は嫌な顔をせず協力してくれる。“別に受付は体力を消耗するわけじゃないから”と。  その日のリップサービスで。アキは鏡を開け、客の頬を両手で挟んでニッコリ笑った。四十に手が届く、といった年代だろうか。無精髭のような口髭を生やし、太めの体格だ。唇を重ね、舌を差し入れる。相手の舌が絡みつく。アキの舌が思い切り吸われた。 「んっ…、はぁ…。ねえ…もっと吸って…」  客はキスの合間に、唇を触れさせながら小さな声でささやく。 「何時に終わるんだ?」 「え?」 「ビルの裏口で待ってる。後でもっと吸ってやるよ。二万でどうだ?」  店外交渉だ。通常は禁止されているが、小遣いが稼げると承諾する者も、風俗業界全般にいる。ヘルスに勤務する者でも店への“落とし”が無く丸儲けになるため、店外交渉に応じる者が少なくない。 「ごめんね。うちでそれは禁止だから」  アキが動揺を隠し、再び唇を重ねようとすると客は遮った。 「ここの子、藍はやらせてくれたぞ」  アキの脳内に衝撃が走った。入店した際に、何度も釘を差したはずだった。だが、ただの煽りかもしれない。ほかの子もやっている、と嘘の話を引き合いに出して安心させたり、競争心を煽ることもある。  アキはいっそのこと、“自分は店長だ”と名乗り出た方が話がおさまるのでは、と考えたが、その言葉を飲みこんだ。 「本当にごめんなさい。僕はそういうの、できなくて」  アキの言葉に客は舌打ちしたが、アキは笑みを崩さずに鏡を閉めた。不安が胸をうずまくが、それを隠して仕事に徹した。  だが、大きな仕事が課せられた。店外交渉の証拠をつかみ、対応しなければならない。それが、店長としての責任だ。本店でもあったのだろうか。東郷なら、どんな対応を――  シャワーを終え、着替えたアキは事務所に戻り、デスクにつくと花森に相談した。 「花ちゃん、どうやらうちで店外やってる子がいるらしいんだ」 「まあっ! どこの店でもちょくちょくあるけど、うちにもいたのね」 「受付の防犯ビデオを見て。三号室の、太った客。リップオプションのときに“二万でどうだ”って言った」  花森はパソコンで防犯カメラの映像を確認する。 「ああ、こいつね。で、ほかの子にも手を出したのかしら」 「藍はやらせてくれた…って言ってたんだけど、ほかはどうだろ」  花森の細い目が、眉をひそめたせいで余計に細くなる。 「うーん…。確証をつかんでからこの客を出禁にして、藍の処遇を考えなきゃね」  アキは思い出した。トラブルなど何かあれば報告しろ、と東郷が言っていた。早速、本店に電話を入れる。 「あ、もしもし、アキです。お疲れ様です。今、お時間よろしいですか」  《ああ、構わん。何かあったか?》  アキが出演したとき、店外交渉を持ちかけてきた客がいたこと、それに応じたキャストがいる可能性があることを話した。  東郷がしばらく考えこむ。  《…そうだな、その客が来たとき、電話の録音機能を最大にして、会話を録音しろ》  個室の電話には、万が一客がキャストを脅したり店外交渉をしたときに証拠が残るよう、受話器を上げなくても録音できる機能がある。キャストには知られていない機能だ。 「はい、それで証拠が残せたら、その客を出禁にします。キャストの方は、こちらで処遇を考えます」  礼を言ってアキが電話を切ると、花森がこちらをじっと見ていることに気づいた。 「何?」  花森は脚を組み、顎に手を当てて小首をかしげる。 「いえね、ショックで店長が落ちこんでるかしらー、なんて思っちゃって」 「そりゃあ、ショックだよ。開店早々、こんなトラブルがあるとは。これも僕が若い店長だから、舐められてるのかな…」  子首をかしげたまま、花森は含み笑いをする。 「そこは気にしなくていいわよぉ。ベテランやヤクザが経営の店でも、こういうことはよくあるものなのよ。何だったら、スグルちゃんに甘えて、慰めてもらったら?」  アキが真っ赤な顔になる。 「何でそこで東郷さんが出るの?!」  手を振りながら、花森は愉快そうに笑う。 「あらやだ、店長真っ赤よ~。まだ仲は進展してないのね。アタシが尻をひっぱたいてあげないとダメかしら」  トラブルへの対処でいっぱいだった頭の中が、東郷のことで埋めつくされてしまい、アキは背をかがめてモニターを盾にして赤い顔を隠した。須美にしても花森にしても、アキと東郷をカップルにしたがっている。このまま流されて付き合うのでは、という不安がある。  しかし、今はそれどころではなく、まずは目の前の問題を片付けるべきだ。

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