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30.花森の変身

 花森とアキはそれ以来、来客を注意深く観察していた。そんなある日、例の男が来た。受付にいた花森からの連絡があった後、アキは小型の機械のスイッチを入れた。個室電話の録音開始だ。  今は藍(らん)が出演している。藍のリップオプションで、男は交渉を始めた。電話を使った会話では、客側の声は周囲には聞こえないが、キャストが言ったことはマイクで筒抜けだ。リップのオプションなら、小声で直接的な話ができて周囲に漏れない。男はそのためにリップオプションを利用していた。  《今日も二万でどうだ?》  《OKだよ。僕はラストまでいるから、店の外で待ってて》  証拠をつかんだ。しかも、“今日も”という、過去にもあったという証拠まで上乗せして。裏切られた気持ちでいっぱいのアキだが、今はショックを受けているより冷静に対処しなくてはならない。花森が事務所に戻ってきたときに、アキは録音した会話を再生して花森に聞かせた。 「お店の外…ね。アタシが彼をお迎えに行ってあげるわ」  花森はロッカーから白いジャケットと整髪料を出し、事務所を出て行った。  その日の営業終了後、藍は何食わぬ顔で事務所にギャラをもらいに来た。トレーにギャラと受領書を出し、アキは藍に言った。 「お疲れ様。藍、悪いけど少しの間だけ、残ってもらえるかな? あまり時間は取らせないよ」 「え…あ、はい」  少しの動揺を見せたが、藍は承諾した。外に客を待たせているため、ソワソワして落ち着かない様子で窓の向こうを覗き見ている。  しばらくして、廊下で何やら騒がしい音が聞こえた。荒々しい足音と、ドスの聞いた怒号。  乱暴にドアが開いたと思えば、例の太めの中年男と――見知らぬヤクザ風のオールバックの男が入ってきた。 「若、こいつですぜ。うちの藍に店外持ちかけたヤツは」  長身でしかめっ面なヤクザ風の男は、客の男の腕を引っ張り、アキの前に立たせた。  ヤクザ風の男の顔をよく見ると、痩せぎすで目が細い。花森だった。あまりの驚きに大声が出そうになるのをこらえ、アキはデスクに平然を装って座っている。髪をオールバックにしてジャケットを羽織っただけで、これだけ変わるものなのか。さらにドスのきいた声と、普段とは違う目つきと言葉使い。誰でも驚くはずだ。ここにいる藍も然り。店外がバレたことと花森の変身に、目を見開いている。 「さっきの会話は録音してんだ! さっさと吐いたらどうだ、この野郎!」  痩せてはいるが長身のヤクザ(風)に脅され、体重では勝っていそうな客の男だが、萎縮してしまっている。  アキが録音機械のスイッチを入れ、録音した会話を再生した。  《今日も二万でどうだ?》  《OKだよ。僕はラストまでいるから、店の外で待ってて》  藍も顔が青ざめる。証拠が残っている以上、言い訳はできない。すっかり諦めきった表情になっている。 「若、こいつの処分はどうしやす?」  アキに向かって“若”と言う――ということは、ヤクザの組長の息子が経営している筋書きか。アキも花森の芝居に乗ることにした。ここまでうまくことが運んでいるのに、台無しにはできない。アキは腕を組み、男から顔を背けて天井を仰いだ。一度は舞台で顔を見られている。店外を断ったキャストだと気づかれないようにするためだ。 「…そうだな…。うちの商品を傷物にした代償は大きい。また、若い連中に頼んで、コンクリ詰めにして沈めるか」  今時コンクリで海に沈めるとは、古いだろうか。そんな不安があったが、アキはショーではないアドリブには弱い。だが幸いにも、男は信じてくれた。“ひぃっ”と引きつるような悲鳴を上げ、アキに向かって土下座をした。 「す、す、すみませんっ。ここの男の子が可愛くて、つ、つい…」  花森がしゃがんで、頭上から凄む。 「オッサンよお…すみませんで済んだら警察、じゃなかった、コンクリ業者はいらねえんだよ」  コンクリートで足元を固められ、海に沈められる。その様子が頭の中で完成した男は、泣きながら額を床に擦りつけた。 「うわああああ! もう二度としません! だから命だけはお助けを~! 金なら払いますううううわああああ!」  花森がチラッとアキを振り返る。花森はウインクして、口元に笑みの形を作っている。 「おい、あんた」  横顔でちらりと男を見下ろしたアキも、できるだけ凄みをきかせた声音で話しかけた。男が恐る恐る顔を上げる。涙と鼻水で濡れた情けない顔で、歯をガチガチ鳴らしながらアキを見ている。どうやら先日、店外交渉を持ちかけたキャストだとは気づいていないようだ。 「二度目はないからな。その代わり、もうこの店には来るな。そうすれば命だけは助けてやる」  男は再び額を床に擦りつけ、謝罪と感謝の言葉を繰り返す。 「ただし、身分証を出してもらう。こちらでコピーを取るからな」  立ち上がってブルゾンの胸ポケットから免許証を出した男は、恐る恐る花森に渡す。花森が複合機でコピーを取ると、免許証を床に放り投げた。男が慌てて拾う。  花森が男の腕をつかみ、ドアの外に連れ出された。階段を下りるまで“すみません、すみません”と謝る声が響く。アキは“バレずにすんだ”と、ホッとした様子で小さくため息をついた。そのため息の意図するところがわからず、藍は怯えて肩をびくりと震わせた。

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