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31.男冥利

 それきり藍はずっと、事務所の隅で震えていた。アキの言葉を鵜呑みにし、まさか暴力団の経営だとは、海に沈められて消されるのでは――そればかりが頭の中を巡っている。 「藍」  アキに呼ばれ、また肩が大きく跳ねる。 「あの客との店外は何度目だ?」 「あ、はい、一度…です。今日が二回目で…」  実際にはもう少しあるかもしれないと踏んだアキだが、そこは追及しなかった。過去に一度でも行われた事実だけで充分だった。禁じられている店外交渉を、未遂分も含めて複数回やっていた。客の脅しでもなく、藍の意思としてだ。 「ほかにもやってるキャストはいるか?」 「いえ…知りません。ほかに店外を言ってくるお客さんも…知ってる限りではほかにいません」 「入店のときに、店外は禁止だと言っておいたはずだが?」  慌てて藍は深く頭を下げた。 「すっ、すみません! 金に目がくらみました!」  確かに風俗店に勤務する者は、ほとんどが金目当てだ。さらに臨時収入があれば、多少リスクを背負ってでも欲しいだろう。母子家庭で育ち家計を支えるアキとしても、収入は大事だと思う。だが、規則は規則だ。 「藍、君には今日限りで辞めてもらう。もちろん、本店にも連絡する。だが、君の行動は制限しない。今日で君はこの『X-ROOM』とは無関係だ。今までご苦労様」  アキは自分でも驚くぐらい、冷静かつ冷たくいい放った。  それでも藍は恨みごと一つ言わず、それどころか先ほどの男と同じように謝罪を繰り返し、感謝の言葉までつけ加えた。  藍が出て行ってから、花森が戻ってきた。 「アキ店長、大仕事お疲れ様。すっかり“若”になりきってたわね。…けど…」  花森は我慢しきれず吹き出し、大笑いした。 「アッハハハハ! 今時、コンクリで海に沈める、は無いわよぉ~! アキ店長、古すぎっ」 「ご、ごめん…。なんかヤクザっていうと、そんなイメージで…」  鼻の頭をかきながら言い訳をするアキに、花森は涙を拭きながら言う。 「でも、アイツを騙せたんだから、上出来だわ」  いつもの、語尾にハートマークでもついていそうな話し方だ。強面だった顔も、いつものように穏やかな笑顔に戻っている。それでも普段とは違うオールバックは、何となく違和感がある。 「ビックリしたよ~。花ちゃん別人みたいだから、本物のヤクザかと」 「ふふふっ、昔、ヤクザの彼氏がいたの。抗争で死んじゃったけどね」  事も無げに言うその様子から、恋人の死からずいぶんの年数がたっていることがうかがえる。花森は若いころから、波乱に満ちた人生を送ってきたことだろう。  腰をかがめ、アキのデスクに頬杖をつき、花森がにっこり笑う。 「ねーえ、アタシかっこよかった?」  オールバックで白スーツで、金のネックレスを覗かせてのその口調は、どう返していいかわからない。 「あ…その…迫力があって…、うん、まあ、かっこよかったかな」  普段の花森と比べれば。 「やだあ~! そんなに褒めたりしちゃったら、スグルちゃんとの約束破って手を出しちゃうわよぉ」  そこまで褒めていないが。アキは思い出したように受話器を取る。 「そうだ、東郷さんと言えば、この件を連絡しないと」  アキは東郷に電話をした後、例の客の免許証と藍の履歴書のコピーをファックスで送った。  その後、東郷の方から受け取り確認の電話があった。  《確かに受け取った。ところでアキ、大丈夫か?》 「えっ…大丈夫って…」 《開店早々、そんなトラブルでへこんでいないか?》 「そりゃあ、ショックですよ。裏切られた気持ちいっぱいで。やっぱり僕が若いから、舐められてるのかな…とか」  アキの声が沈む。店を預かる者として、従業員の不正行為は、管理不行き届きになってしまう。 《気にするな。この本店でも、アキが入店する前に店外やストーカー行為のほか、キャスト同士のいざこざもあったからな》  それを聞いて、アキは安心した。東郷の“気にするな”の柔らかい口調が、何よりの薬になる。 「ありがとうございます。藍が抜けてキャストが少ないんですが、募集は随時受け付けてますから、すぐに埋まると思います」  東郷は何か考えているようだった。数秒の後、思いついたように東郷が話す。 《なら、うちのカズハをそっちと掛け持ちさせるか? あいつ、時間が作れたら二号店にも出たいと言っていたぞ》 「本当ですか? ありがとうございます。助かります」  丁寧に礼を言った後、電話を切り、アキはため息をついた。ホッとしたのが半分、不安が半分。 「あら、解決した割には浮かないカオね」  花森が急須から湯のみに緑茶をそそぐ。今度はアキがデスクに頬杖をついた。 「僕は東郷さんに甘えっぱなしじゃないかなあ…」  確かに東郷はアキより一回りも上だから、落ち着いた対応ができる。トラブルに対して対処の冷静さは、学ぶべきところだ。 「東郷さんの助けがなければ、何もできない気がして。まだまだ僕は頼りないな」 「スグルちゃんは、そうは思ってないかもね」  そう言いながら湯のみをデスクに置いた花森の顔を、アキが見上げる。 「何もできない子だったら、店長なんて任せないわ。何事も経験よ。この業界は特殊だからね、いろんなことが起きるわ。アタシもスグルちゃんも、あのだらしないオトコも、みーんないろんな経験をしてきたの」  だらしないオトコ――花森は少し眉をひそめて言った。須美のことだ。どうやら花森は、須美とは馬が合わないらしい。 「それにね、スグルちゃんの本心では、もっと甘えてほしいはずよ」  そうかな、とアキは花森が淹れてくれたお茶でひと息つく。花森の細い目が、さらに細められる。 「惚れた相手に甘えられるのは、男冥利につきるから」  あやうくお茶を吹き出しそうになるアキだった。

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