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39.薬と毒

 母親が退院した翌日、アキは花森が大好物だというアップルパイを手土産に出勤した。繁華街の近くにあるケーキ店のものだ。 「店長! ありがと~! アタシがアップルパイが好きだって、よく知ってたわね」  花森は箱を手に、細い目をさらに細めて笑顔を見せた。 「東郷さんに聞いたんだ。花ちゃんが、アップルパイが好物だって。長い間休んでゴメンね」 「いいわよぉ、気を遣わなくて。お母さん大変だったんでしょ。でも、退院できてよかったわね。おめでとう」 「ありがとう。花ちゃんにもだけど…東郷さんや須美さんにも迷惑かけちゃったな」  アキが出勤できない間、花森の休日には本店を須美に任せ、東郷が二号店に来ていて、店が休みになることは一日もなかった。お茶を淹れながら、花森は思い出したように言う。 「そうだわ、確か今日は二人とも出勤だった気がするんだけど…営業後に、本店に顔出してみたら?」  その日の営業終了後、アキは自転車で本店に来た。事務所に入ると東郷はいなかった。須美だけがデスクにいた。本店も営業は終わっていて、キャストも帰った後だった。 「お疲れ様です。東郷さんは今日、お休みですか?」 「うん、一週間以上休み無しだったからねー。本当なら出勤だったんだけど、今日は俺が強制的に出勤停止にしたわけ」  アキが休みの間、東郷は休みを取っていなかったのだ。休日返上で二号店に来ていたためだ。 「すみません…ご迷惑おかけして。もう今日から大丈夫なので…本当にありがとうございました」  深く礼をするアキに、須美は手を振って答える。 「いーのいーの。お互い様だからね。お母さん退院できてよかったね」 「はい、ありがとうございます」  顔を上げたアキは、ふと思い出した。母親が倒れた日、東郷の車で見た物を。あの後に母親が倒れ、それどころではなくなったために、すっかり忘れていた。  世話になった須美をなじる気はないが、それでも気になってしまう。アキは思い切って尋ねてみた。 「あ、あの…須美さん…、先週東郷さんの車に、忘れ物をしていませんでしたか?」 「スグルちゃんの車に? …さあ~、あったかなあ」  頭をかきながらタバコをふかす須美は、思い出してくれない。須美にとっては、特に気にするような物でもないのだろうか。それとも、東郷の車に常備しているのだろうか。想像は悪い方へと走る。  仕方なく、アキはその“物”を伝えてやる。 「その…須美さんのタバコの空き箱といっしょに、別の箱があって」  須美が煙にむせて、何度も咳き込む。 「もしかして、コンドーさん?! スグルちゃんの車にあった?! うわっ、マズいなぁ」  いつもの飄々とした態度ではなく、すっかり慌てた様子は、まるで隠し事でもしているようだ。それは、アキにだけは知られてはいけない事実として。  アキは体の横で、両手の拳を握りしめた。顔に出さないように努力しても、険しい表情になってしまう。 「…やっぱり須美さんのだったんですね」  バツが悪そうに頭をかいていた須美だが、急に開き直ったようにデスクに肘をつけ、正面からアキを見据える。 「もし俺のだとしたら、アキちゃんに不都合がある?」  言われてアキは気づく。須美の言う通り、不都合はない。アキと東郷は付き合っているわけではない。アキが怒りを覚えるのは理不尽な話だ。ただ、アキに告白をしておきながら、その後で東郷が須美と肉体関係を持ったのなら、アキのことは性欲のはけ口にしか思っていないのかと解釈してしまう。アキはそう理屈づけていた。 「…須美さん…東郷さんのこと、どう思ってるんですか」  アキの声が少し震えている。感情を抑えようとするのが精一杯だ。本当は、“寝たのですか”と聞いてみたかった。 「昔の熱が再燃した、と言ったらアキちゃんはどうする?」  互いの体を知り尽くした二人がデスクを並べ、毎日のように顔を合わせている。須美の言うとおり、“再燃”しても仕方ない。 「俺もスグルちゃんも、年寄りじゃないから性欲はまだまだあんの。好きな人に振り向いてもらえなければ、そりゃ溜まるもんも溜まっちまうねぇ」  まるで、アキに振り向いてもらえない東郷が、欲求不満で須美を誘ったような言いぐさだ。アキはこれ以上、感情を抑えられない。唇を噛むと、大股でドアに向かって歩き出す。 「失礼します!」  アキは勢いよくドアを閉めた。ギシリ、と須美がキャスター付きの椅子の背もたれに体を預ける。灰皿に押しつけられたタバコはフィルターがつぶれていたが、口元に浮かんでいたのはいつもの笑みではなく、苦笑いだった。 「ちーっと、薬が効きすぎたかな」  無精髭が伸びた顎をさすりながら、自嘲気味に独り言をつぶやく。薬は過ぎると毒になる。毒はまれに、薬になるものもある。その加減が難しいのは、恋が難航しているからか。須美が巻いた種は、薬草なのか毒草なのか。育ってみなければわからない。 「俺も、らしくないことをしたなあ」  須美は大きなため息をつくと、パソコンをシャットダウンさせ、帰り支度を始めた。
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