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4.荻との出会い

 繁華街の外れ。マンションや普通の商店が並ぶ通りに、小さな店がある。『珈琲専門店 ノアール』と書かれた木製の素朴な看板があるその店の、自動ドアが開いた。よく見知った常連客を、オーナーは満面の笑みで迎える。 「よっ、アキ。今日もいつものやつにする?」 「はい、奏さんのサンドイッチ、おいしいから」  アキはいつもの席――一番端に腰掛けた。カウンター席しか無なく、いつもの特等席が空いていないこともあるが、今日は空いている。客はほかに三人座っていた。  本来ならば、すでに『X-ROOM』のキャストではない人物を、源氏名で呼ぶわけにはいかない。しかし『X-ROOM』の常連客もよく来る。奏がヘルスで勤めていたことを知るゲイの客は、その当時の源氏名で呼ぶ。  奏は“誰か、コーヒショップのあんちゃん、とでも呼んでくれないかな”と苦笑するが、風俗時代から慕ってくれる客が多く、それなりに繁盛している。これも奏の人懐っこい人柄のおかげだ。 「はい、ミックスサンドとブラジル。今日はチーズのホットサンドも一切れ、おまけしといたからな」  皿には玉子サラダにハム、野菜のサンドイッチと、間にチーズが挟まれたホットサンドが乗っている。ブラジル・サントスの良い香りは、パンとの相性もいい。 「ありがと、奏さん! だから奏さん大好きっ」 「俺が、っていうよりサンドイッチが、だろ?」  奏はコーヒーカップを拭きながら笑う。その笑顔が苦しい。アキが『X-ROOM』に入った頃に、自分はノンケだと奏に話したことがある。  まさか、性嗜好が変わるとは思いもよらずに。  まさか、奏を好きになるとは――  アキは奏の店を出た。繁華街に入る手前で自転車を止め、休憩中に飲むジュースを自販機で買った。後ろから声をかけられる。 「アキ、あの…ちょっといいかな」  自分を“アキ”と呼ぶ人間は限られている。東郷や須美、奏、『X-ROOM』の関係者でないとすると、客しかいない。アキはその男に見覚えがあった。必ず、リップサービスのオプションで来る男だった。 「はい、何でしょう?」  男は三十代と思われる。ヨレヨレのTシャツに、ニッカボッカのポケットに手を突っ込んでいる。土方風の日に灼けた浅黒い肌で、東郷のような清潔感とはほど遠い。 「その…ちょっとお茶でも…」 「すみません、これから仕事ですので」  プレイ中とは違い、アキはよそよそしく答えて会釈をし、足早に立ち去ろうとした。だが、男に腕を取られる。 「ま、待てよっ。いつも俺にキスしてくれてるだろ? ほかのヤツなら、“おまけだよ”なんて余分にキスはしてくれないんだ。あんただけなんだ…!」  たまに、仕事でやっているだけのことなのに、こうして本気にする輩がいる。常連客だから無碍にすることもできず、アキはできるだけ笑顔で答えた。 「なら、今日もお時間がありましたら、お店に来てくださいね」  腕を振りほどこうとしても、男の力は強い。痩せぎすではないアキだが、それでも腕の太さが違う。 「アキ、俺はアキが好きなんだ…! 冷たくしないでくれ」 「あの…遅刻しますので…」 「じゃあ、携帯番号かメアドでも教えてくれ!」  遊び方を知らない男は困る。奏もヘルスにいた時、勘違いをする客は何人かいて、ストーカーの被害にもあったと話していた。 「そういうお客様との個人的なお付き合い、規則で禁止されてるんですよ」  “お客様”のところを強調して言われ、男は顔をしかめた。冷たい態度に腹を立てたようだ。アキを引っ張り、人気の無い路地裏に連れて行こうとする。さすがにアキは抵抗を始めた。 「は、離してください! 店長に言って、出禁にしてもらいますよ!」  ビルとビルの間、ジメジメした暗く狭い空間に連れこまれた。ゴミ箱がひっくり返る。荒々しい足取りで、排水溝のグレーチングの金属音が響く。 「いたっ!」  アキがビルの壁に押し付けられた。両肩をしっかりつかみ、男は唇を近づけてきた。アキがどんなにもがいても、逃げられそうにない。きつく閉じた目頭から、涙がにじむ。男の顔が近づく。大声を上げるしかないのか―― 「やめろ、嫌がってるだろ」  アキが恐る恐る目を開けると、大柄で肩幅が広い男が、客の男の肩をつかんでいる。 「あっち行け、邪魔だ!」  殴りかかってきた拳を手のひらで受け、大柄な男は相手の腕をひねった。 「いたたた! 離せ!」 「あんたがこの兄ちゃんにつきまとわないなら、離してやるぜ。手を出すっていうんなら、このまま署まで同行してもらおうか」  体つきに似合う低い声でそう言われ、客の男は額から汗をにじませた。 「…署ってことは…サツか?」 「ああ。生活安全課のデカだ」  生活安全課は、風俗店の管轄だ。この辺りは風俗店が多い。Tシャツとジーンズというラフすぎる服装は、私服で一般客を装い、違法な風俗店があるかどうか巡回して取り締まろうとしているのか。客の男はそう考え青ざめた。  大柄な男は、相手の腕を後ろにねじ上げた。 「ひいいっ、は、離してくれ! もうこいつには手を出さない…!」 「よし、今日だけは見逃してやる」  大柄な男は、客の男を突き放した。ひっくり返したゴミ箱につまづきながら慌てて逃げる様を、じっと睨みつけている。 「あ…あの…刑事さん、ありがとうございました」  丁寧にお辞儀をしたアキに、大柄な男は両手を振って慌てふためく。 「い、いや、ごめん! 俺、刑事じゃないんだ。ああ言って威嚇した方が効き目あるかな、と」  顔を上げたアキは、不思議そうに相手の顔を見つめる。東郷や須美とほとんど歳が変わらないだろうか。奏よりもたくましい体つきで、武道に精通してそうな、眉が太くキリッとした顔立ちだ。 「あいつに“警察手帳見せろ”って言われなくてよかった~。俺、ホントはパン屋のおじさんなんだ」  男は店のチラシを見せた。手作りで素朴なチラシは、この男の手書きだろうか。“『ブリュンヌ』三種の豆パン新発売”とある。 「俺はここの経営者で、荻洋介(おぎようすけ)っていうんだ。今日は新作パンの宣伝でチラシ配り。よかったら、買いにおいで」 「あ、はい。今度行きます。本当に、ありがとうございました」  深く頭を下げるアキに、荻は手を振って大きな声で“気をつけろよ”と言ってくれた。  アキはそのチラシを、大事に折りたたんでバッグにしまった。

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