5 / 46
5.あたたかいオマケ
休日、アキは繁華街がある駅の近くまで来た。そこに荻のパン屋『ブリュンヌ』がある。電車を利用するならばすぐにわかる位置にあるが、アキは自転車で通勤しているため、駅前の地理には詳しくなかった。
ガラスのウィンドウからは、何人かの買い物客と、おいしそうなパンが並んでいるのが見える。派手な装飾の菓子パン類や奇をてらったような総菜パンはあまりなく、食パンやクロワッサン、バターロールなどのスタンダードなパンが多い。
アキは“Welcome”と書かれたドアマットを踏む。自動ドアが開いた。ふんわりと焼きたてのいい香りがする。この匂いだけで、お腹が鳴りそうだ。店内は地味な色目のパン、それこそ店名の『ブリュンヌ(茶色)』にふさわしい色合いが印象的だが、そういった素朴なパンだけで繁盛しているのは、味がいいという証拠だ。
「いらっしゃいませ」
二十代後半と見られる女性が、笑顔で奥のカウンターから声をかけた。アキは商品棚を見た。チラシにあった三種の豆パンは売り切れていた。変わりにチーズパンを三つ、トレーに乗せた。トレーをカウンターに置くと、奥で作業中だった荻がアキに気づいて出て来た。
「よお、来てくれたんだな」
白い帽子に白い作業着。こうして見ると、パン屋らしく見える。アキはにっこり微笑んでお辞儀をした。
「こんにちは。この間はどうもありがとうございました」
カウンターの女性が、荻を振り返る。
「知り合いの方なの?」
ああ、と荻はうなずく。アキはカウンターの女性に説明した。
「荻さんに、危ないところを助けていただいたんですよ」
「まあ、そうなの」
腰に手を当て、荻は豪快に笑う。
「いや、大したことはしてないさ」
紙袋を受け取り、アキは荻を見上げた。
「チラシにあった三種の豆パンを買いに来たんですけど、今日は売り切れたんですね」
「そうなんだー。チラシの効果テキメンだな。よかったら、次いつ来るか教えてくれたら、取っておいてやるぜ」
常連でもないアキに、そこまで好待遇してもらえるとは。せっかくの厚意なので、アキは甘えさせてもらうことにした。
「本当ですか? じゃあ、明日の夕方に来ます」
「そうか、豆パンを――いくつだ?」
「三つ、お願いします。母と妹にもお土産に買って帰りたいから」
母と妹。荻は一瞬だけ、真剣な表情になった。そこに父親がいない。ただ、単身赴任か小麦アレルギーかもしれないが、繁華街の近いこの界隈、事情があって水商売や風俗で家族を助ける者が少なくない。
荻はそれ以上詮索することなく、笑顔に戻った。
「じゃあ、明日な。豆パン三つ置いといてやる」
「ありがとうございます!」
「いやあ、こっちとしても身内で細々やってる店だから、お得意さんが増えるのは嬉しいからな」
カウンターの女性は、荻の妻だろうか。優しい笑顔で接客も丁寧だ。よく見ていると客と世間話をするほかに、お年寄りの客にも声をかけ、体も気遣ってあげている。荻も優しい人で、この店が味だけでなく、そういった人柄もあって評判がいいのだろう。客は次々に入ってきて、荻が置いたばかりの焼きたてのパンも、あっという間に少なくなる。
もう一度礼を言うとアキは店を出た。正直、仕事は精神的につらい。こうした癒される空間があると心が落ち着く。明日を楽しみに、アキは家に帰った。
翌日、アキが『ブリュンヌ』に入ると、カウンターの女性が紙袋を掲げてにっこり笑った。
「豆パン三つ、お取り置きしてますよ」
「ありがとうございます」
奥から荻も、赤い顔を覗かせる。中は相当熱いのだろう。
「よお、今日もありがとなっ」
紙袋を受け取り代金を払うと、今度は奏の店に寄った。
カウンター席には二人の客。中では奏がコーヒーを淹れている。
「いらっしゃい、いつものだね」
パン屋で二人の笑顔、ここでも奏の笑顔にアキは癒やされる。
いつものミックスサンドとブラジルを出した奏は、アキが隣の席に置いた紙袋に気づいた。
「あ、それ『ブリュンヌ』のパン」
「奏さん、知ってるの?」
奏は身を乗り出した。
「だってここのパン、『ブリュンヌ』で仕入れてるからさ」
『ノアール』はコーヒーのほかに軽食があるが、サンドイッチやピザトースト、ホットドッグといったパンの料理ばかりだ。そのパンを全て、荻の店から仕入れていた。アキは知らないうちに、『ブリュンヌ』のパンを食べていたのだ。
思わぬところで繋がりがあり、アキは驚いた。勘違いをした客に襲われそうになったときに、荻に助けてもらったことを奏に話した。
「そうだったのか。あの人、ガタイがいいから頼もしいだろ」
「ええ、あんなに手がゴツいのに、おいしいパンが焼けるから不思議ですよね。あのカウンターにいる女の人も、優しそうな人だし」
「ああ、美晴さんな。よく気がつく、いい奥さんって感じだよな」
アキは奏のミックスサンドにかぶりついた。具はトマトときゅうり、ハムとレタス、卵サラダ。
「アキ、作った俺が言うのも何だけど、体力仕事の割に少食だぞ」
「だって、満腹でお腹がぽっこり出てたらカッコ悪いでしょ。それに動きにくいし」
「それもそうだな」
奏は愉快そうに笑う。手元では何かを作っている。
「はい、これ食って今日も頑張れ」
トングで小さな皿に乗せられたのは、ホットドッグに入れるソーセージを焼いたものだ。
「ありがとうございます!」
アキは焼きたてのソーセージをかじった。
その日の休憩時間、三種の豆パンを食べようとアキはロッカーを開けた。更衣室にはテーブルや椅子もあり、休憩室も兼ねている。
一つを食べて、あとの二つは母親と妹の朝食にと、テーブルにメモといっしょに置いておけばいい、と袋を開けたアキは驚いた。
豆パンが三つのほかに、一口サイズのあんドーナツが三つ入っている。荻の、もしくはカウンターにいる荻の妻らしき人の気遣いだろうか。体を使って疲れた体には、甘い物は嬉しい。
奏は一人で店を切り盛りしている。荻も家族とともに支え合って商売をしている。自分ばかりが苦労をしているのではない。周囲の人たちの温かい気遣いに感謝し、アキは次の舞台の準備をする。
ともだちにシェアしよう!