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9.二度目の救出

 アキが休みを取って一週間になる。しばらく、『ノアール』にも行ってない。幸い傷は浅く、すでに完治している。明日から出勤するアキだが、自転車をこいで荻のパン屋『ブリュンヌ』に来た。母親と妹がパンを気に入ったので、また買ってあげようと思った。その後、奏の所に顔を出す予定だ。  いつものようにカウンターで女性がにこやかに迎えてくれる。奥から大きなオーブントレーを持った荻が来た。焼きたてのパンを商品棚に並べる。アキは挨拶をして、世間話をする。くるみパンが三つ入った紙袋を手に、アキは店を出た。  表に止めた自転車の鍵を外していると、男が近づいてきた。 「アキ…、アキだよな?」  会社員だろうか。スーツを着ている。眼鏡をかけ、髪を横に分けた比較的若い男で、どこにでもいそうなサラリーマン風だ。だが、“アキ”と声をかけてきたということは、『X-ROOM』の常連客だろう。  アキは思い出した。このかすれた声は、毎回会話オプションを申し込む客だ。 「最近、出てくれないから心配してたんだ。公式サイトの出演リストに全然名前も出ないし…。まさか、辞めたわけじゃないだろ?」 「体調がよくなかっただけです。もう治ったので、明日からまた出ます。ご心配おかけして、すみません」  客の気遣いに嬉しくなり、丁寧に礼をしてアキは自転車を押した。その自転車の前に、男が立ちはだかる。 「待って、せっかくだから食事でもどうかな」  まただ。仕事以外の関わりを作りたくないというのに。それに、客との個人的な付き合いは、店で禁じられている。 「あの、これから用事がありますし…そういうのは、店で禁じられていますから」  ハンドルを握る手に、男は手を重ねてきた。 「黙ってればわからないだろ。俺、車で来てるからさ。この辺だとバレるかもしれないから、ドライブがてら少し遠出をしないか」  アキの本心では、バレるバレないではない。客と関わりたくないのだ。重ねた手をそのままに、アキはサドルにまたがろうとした。強引に自転車をフルスピードで発進させれば、諦めて離れてくれるだろう。だが、今度は腕をつかまれる。 「君さ、お高く止まってない? ちょっと店のナンバーワンだからって」 「ご、誤解です!」  自分の思いどおりにならないと、高圧的な態度に出る。金を払ってやっているのだから、そんな理由でまとわりつく客も、風俗業界ではよくあることだ。  手を振りほどきたいが、荻の店の前でトラブルは起こしたくない。アキがどうやって断れば諦めてくれるのか、考えあぐねていると―― 「何やってるんだ、あんた。うちの大事なお客様に」  荻が店から顔を出した。ガタイのいい荻を見て敵わないと観念したのか、男は舌打ちをすると走り去った。 「…まったく…。君はああいうのに狙われやすいのかな。ここは通りの向こうがハッテン場だからな。気をつけた方がいいぜ。必要以上にあの辺りには近づかないようにしないと」 「僕は…この近くで働いてるので、どうしてもこの近辺は通るんです」  心配してくれる荻には悪いが、そのハッテン場で働いているアキには、いつでも危険がつきまとう。 「そうかい? それなら、怪しそうなやつとは目を合わさないとか、最悪、大声を出すとかしないと、本当に君は危なそうだな」  そういえば、とアキは思い出す。奏は荻のことをよく知っているようだった。アキは思い切って、荻を見上げた。奏のプライバシーのことなので、慎重に言葉を選ぶ。 「あ、あの…コーヒー専門店の『ノアール』…、あそこの店長の…以前の仕事を知っていますか?」 「ああ、知ってる。前も、その前のも」  荻は奏がゲイ専門ヘルスにいたころから知っている。それならば話しやすいだろうか。そう考えていると、荻は店の裏にアキを連れて行った。人前で話しにくいことだろう、と荻が気を遣ってくれた。 「僕はその――奏さんが前にいた覗き部屋で働いています。アキという名で」  荻は目を見開き、アキを見下ろしている。まったくすれたところのない、おとなしそうに見える純朴そうな青年が、まさか風俗店で働いているとは。 「…そうか、彰太(しょうた)が弟のようで放っておけないっ、て言ってたアキという子は、君だったのか」  奏の過去を知り、奏を本名の“彰太”で呼ぶ人。以前、奏が受領書にサインをするときに本名をちらりと盗み見たことがある。“彰太さんというのか”、そのときは密かな情報を知ったようで、彰太という名前が甘く濃く胸に広がっていた。その秘密の名前が、他人の口から聞かされた。それも気になったが、アキにとっては奏の“弟”以上の存在になれないことが寂しかった。 「ま、そういう場所を知ってる君だから話せると思うけど」  荻は頭をかきながら、少し照れて話す。 「俺、彰太――奏の恋人なんだよ」  アキの目の前が真っ暗になった。荻は今、何と言ったのか。聞き間違いではないのか。 「あ、あの、カウンターにいる女性、荻さんの奥さんじゃないんですか…?」 「あいつは俺の妹だよ。結婚してこの近くに住んでるから、手伝いに来てもらってる」  奏はあの女性を“いい奥さん”と言っていた。てっきり荻の妻だと思いこんでいた。 「彰太がヘルスにいたころ、俺は客として来たんだ。何度か行くうちに意気投合して、それから付き合ってる」  奏は元々、コーヒーが大好きでいずれは店を出したいと思ってた。二人が付き合ってからは、奏は体の負担の少ない覗き部屋に転職した。恋人とのつながりがあるコーヒーショップ。奏にとって、まさに今が夢の絶頂だろう。  パンの茶色から命名された『ブリュンヌ』、それに対してコーヒーの色、『(ノアール)』。もう、間には誰も入る余地がない。無論、アキでさえもだ。  それから荻とどうやって話したのか、どうやって家に帰ったのか、あまりにも衝撃が強すぎて、記憶が曖昧になっている。ただ一つはっきりしているのは、奏の店には寄らなかったということだ。

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