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10.残酷な優しさ

 その翌日、アキは気持ちを切り替えて出勤した。実のところは、気持ちを切り替えようと努力している段階だ。 『X-ROOM』で知り合って好きになった奏。この店には思い出が多すぎる。ショーの途中で思い出して涙が出るのでは――想像するだけでも、鼻の辺りが痛くなる。  自転車を止め、ビルに入ろうとしたアキを誰かが呼び止めた。 「アキ、元気にしてた?」  振り向くと、奏が立っていた。いつも店で見るエプロンで、上着を羽織っている。手にはタッパーウェアを持っている。 「奏さん…お店は…」 「今日は早めに店じまい。アキがしばらく来なかったし、今日の『X-ROOM』のスケジュールを見たら久しぶりに出勤になってたけど、それでも来なかったから、どうしたかなと思ってさ」  奏と荻のことでショックを受けている今、『ブリュンヌ』にも『ノアール』にも顔を出していなかった。せっかく、気持ちを切り替えようとしていたのに、感情が表にあふれ出てしまいそうになる。 「どうした? 風邪でもひいた?」  奏は一歩近づき、アキの顔を心配そうに覗きこむ。仕事上とはいえ唇を重ね合い、それ以上のこともした相手だ。そのときの甘いときめきを思い出してしまう。 「いえ…少し体調が悪かったけど、もう大丈夫で…」  よかった、と奏が頭を撫でてくれる。奏は優しい。きっと、荻にも優しいだろう。今のアキには、奏の優しさが残酷だ。 「これ、ミックスサンド。俺のおごりだからな」  奏はタッパーウェアをアキに渡した。奏はこれを届けるため、店を閉めてわざわざ来てくれたのだ。 「代金はいらないけど、そのタッパーは絶対返してくれよな」  奏の言いたいことは、“元気になったのなら、店に顔を出しに来い”だ。律儀なアキのことだ。タッパーウェアを返しに必ず店に来る。一週間以上も顔を見せなかったアキを、奏は心配してくれていた。  アキはミックスサンドを見つめる。荻の焼いたパン、それを奏がサンドイッチにした。いわば、二人の愛の結晶だ。アキにとってはつらい物だが、それを大事に抱える。自分に入りこめる余地はなくても、奏が一生懸命作ってわざわざ届けてくれたものだ。  アキはうつむいてしまった。 「かな…で…さん」  礼を言おうとした声が震える。いつの間にか、熱く頬を濡らすものが流れている。 「どうしたんだ、アキ?」  アキは服の袖で顔をぬぐった。それでも顔は上げられない。これ以上想いを封印できず、アキはその苦しい想いを外に解放してやった。 「奏さん…ずっと、ずっと好きでした…」 「アキ…」 「奏さんと共演したころからずっと…。今でも僕、仕事のときには奏さんを思い出して…」  奏は何と声をかけていいかわからない。ずっと弟のように慕ってきたアキに、そんなふうに思われていたとは。 「荻さん、すごくいい人だから…、奏さんのことは好きだけど、荻さんのことも恨みません。むしろ、奏さんの恋人がいい人でよかった…」  涙ながらに話すアキを見て、奏も苦しい。だが、いつもみたいに優しく微笑んだり、頭を撫でてやるようなことはできない。  もう一度乱暴に顔をぬぐうと、アキは顔を上げた。 「荻さんとお幸せに。気持ちの整理がついたら、必ず『ノアール』に行きます。サンドイッチ、ありがとうございました」  深く頭を下げ、アキはビルの中に駆けこんだ。  エレベーターの手前、郵便受けボックスの陰でアキは声を殺して泣いていた。  東郷と須美は、ブラインドの下りた窓から離れた。 「スグルちゃんが一生懸命外を見るから、何事かと思ったよ。あの様子だと、もしかして」 「…さあな、どうだかわからん」  たまたま外を見ていたら、アキと奏の姿が見えた。アキはうつむいていた。普通なら、ビルに入ってこの事務所に顔を出し、更衣室に入るはずだ。アキはなかなか姿を見せない。  東郷は席につくものの、しきりにペンをいじったり、パソコン画面を眺めていたり、落ち着かない様子だった。  やがて顔を出して挨拶をしたアキの目が、真っ赤になっていたのを見て、東郷と須美は全て悟った。  奏は辞める少し前に、“恋人がパン屋なんです。そこのパンを最高においしく飲めるコーヒーを出す店にしたいんです”と二人に話していた。  アキが事務所を出た後で、須美がつぶやく。 「…アキちゃんの気持ちに何となく気づいてたのに、それを話さなかった俺たちって…悪魔かなぁ」 「いや、俺たちが話そうと話すまいと、アキが傷つくのは明らかだ。体の傷のこともあるし、アキがショックでどうにかなってしまわないか、それが心配だ」  須美もパソコン画面を見つめてはいるが、画面のどこも目には入っていない。 「『ノアール』の二号店を出す、って夢も立ち消えただろうね。指針がなくなって、アキちゃんこれからどうすんだろ」 「それぐらいで店を出すのを断念するのは、結局はアキは奏が好きなだけで、コーヒーが好きなんじゃないってことだ。そんな気持ちで店を出したところで、奏には迷惑だろう。アキのためには、今のうちに知ってよかったんだ」  ニヤニヤ笑いながら、須美が相棒のデスクの方に目をやる。 「それ、アキちゃんへの戒めっていうより、自分への言い聞かせみたいじゃん」 「須美!」 「へへへ、受付行ってきまーす」  受付で煙草を吸うな、エレベーターでも吸うなと言ってあるのに、須美はいつもくわえ煙草で受付に行く。今日も同じスタイルで手をヒラヒラと振りながら、須美は事務所を出た。

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