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14.ガラス細工の恋は砕けた

「奏さん…何で…?」  個室には奏が座っていた。幻だろうか、その信じられない光景を、アキはすぐに現実だとは認識できなかった。奏が客として舞台を見に来てくれた。しかも、リップのオプション付きだ。  奏は少し顔を突き出す。客から手を伸ばすのはルール違反だ。アキが来るのを待っている。 「東郷さんに頼まれたんだ。アキが不調だから、客としてリップオプションで来てくれ、料金は俺が出す、って土下座したんだよ」 「店長が…?」  もしかしたら、奏のキスがきっかけになって勃起するかもしれない。東郷は藁をもつかむ思いで奏に頼んだ。 「アキ、お客さんを待たせちゃダメだろ」  オプション客は、奏のほかにもいる。カズハもオプション回りをしているが、アキを指名している客もいる。待たせている余裕はない。  アキは手を差し伸べた。骨ばった、奏の顎。最後に奏に触れたのは、いつだったろう。アキは奏の頬を手のひらで、おそるおそる包んだ。 「大丈夫、洋介さんにはちゃんと許可をもらってるよ」 「荻さんが?」 「アキのためになるなら、行ってこいってさ」  普通なら、恋愛感情が無いとはいえ、自分の恋人が風俗店に行き、ほかの誰かにキスをするなど嫌なはずだ。それなのに荻は承諾してくれた。アキのために。荻の懐の深さには、逆立ちしても叶わない。アキの目には涙が浮かんでいた。一筋流れた涙を急いで指で拭い、目を閉じて奏と唇を重ねた。すぐに奏の方から舌を差し出し、震えるアキの舌に絡まる。そのキスは官能的でありながら優しく、アキを励ましてくれるようだった。  大丈夫、アキなら絶対。  長いキスの後、アキは微笑んだ。奏に負けないぐらいの優しい笑みで。 「ありがとう、奏さん」  鏡を閉める。自分の顔しか移さない鏡に向かい、アキは“サヨナラ”と唇を動かした。  もう、奏のことは完全に諦める。奏には荻がいる。優しくて頼りになる、男の中の男。  万華鏡の花は、ガラス細工の恋を砕き、今、きらびやかに開花する。  その日は射精しなかったものの、奏のキスでアキは硬くそそり勃った。  シャワールームから出たアキは、ロッカーにもたれて床に座りこんでいた。 「アキちゃん、お疲れ様。大丈夫?」  カズハがアキの頭を撫でる。こくん、と小さくうなずいただけで、アキの表情は冴えなかった。 「やっぱり、奏くんには叶わないな」  カズハは明るい声で言う。 「俺が何やってもダメなのに、奏くんはキスだけで簡単にアキちゃんを勃起させるからさ」  射精はしなかったが、確かにアキは勃起した。カズハの愛撫でほとんど反応しなかったのに。 「奏くんを諦めるのは勝手だけど、アキちゃんの中で奏くんの存在を消しちゃダメだよ」  優しい人だから、好きになった。その奏を忘れることは、奏の優しさも今までの本気も、全て否定することになる。いつかほかの人を好きになったとしても、奏を好きだったことはいい思い出として残しておきたい。  カズハは目線を合わせるように、アキの前でしゃがんだ。 「俺もアキちゃんのことを、一旦は諦めるよ。けど、アキちゃんを好きな俺は、ずっとここにいるから」  もう一度、アキの頭を撫でる。その仕草は、奏の優しさに似ていた。 「…カズハさん、本当に…いろいろありがとう」 「そんな、辞めちゃうみたいな言い方やめてよ。体調戻るまで、俺は何度もペア組むからね」  カズハは更衣室を出た。ドアが閉まったと同時に、もう流さないはずのものが、目からあふれ出る。  しばらくロッカーにもたれたままでいると、ノックの音がした。中からの返事を待たず、東郷が入ってきた。 「カズハが、アキの様子を見に行ってあげてほしい、と言ってきたんだ。大丈夫か?」  アキは涙が止まらず、しゃくりあげて泣いた。 「もう…諦めたはずなのに…か、奏さんとは…し、仕事で、愛情のないキスしかできないんだ、って思ったら――」  服の袖で目元をふいても、涙は止まらない。奏のことは諦めたのに、後から涙があふれてくる。  東郷は近くにあった丸椅子に座る。 「すまない、俺が余計なことをした」  アキは力強く、首を横に振った。 「いいえっ、店長の…おかげで…僕は勃起できたんです」  あのキスが無ければ今日も勃たないまま、カズハに迷惑をかけていただろう。今回のことで、アキは何人もの人に支えられていることを実感した。ペアで盛り上げてくれたカズハ、奏にリップのオプションを頼むため土下座までした東郷、引き受けてくれた奏、それを許可した荻。 「店長が、奏さんに…その、土下座した、って」  真っ赤な目で、アキは笑顔を作った。東郷はバツが悪そうに頭をかく。 「必死だったからな、俺も」  数分後、落ち着いたアキは立ち上がり、礼をした。 「ありがとうございます、店長。おかげで仕事に自信が持てそうです」  顔を上げたときにはすでに、力強く真っ直ぐな、いつものアキに戻っていた。 「僕は、奏さんという素晴らしい人が好きだった。それを糧に、ショーに磨きをかけていきます」  失恋を踏み台に、いい男になる。アキの固めた根性は、プロそのものだった。

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