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25.奏に会えて
須美と話をしてからは、徐々に少し落ち着いてきたアキだった。まだ気持ちに整理はつかないが、ここしばらくの変化にも慣れてきた。
だが、それでも東郷の顔は見づらいかもしれない。須美に言われてからは、ますます意識してしまう。東郷を思って自慰をしたことや、ショーでのキスのときに“好きだ”と言われたこと。思い出さないようにしても、アキの心の奥底に住む本音は意地悪な小悪魔なのか、どうしても思い出される。
東郷が出勤する日はまだわからないが、その時には平常心で接することができるだろうか。心が落ち着いた今でも、その不安はある。
次の出勤日、少し早めに出たアキは、久しぶりに荻の『ブリュンヌ』を訪れた。焼きたてのいい香りがする店内、カウンターにいる荻の妹も、相変わらずの笑顔で迎えてくれる。
母と妹の分、そして自分が休憩中に食べるパンを選び、カウンターに持って行くと、奥で作業中だった荻がアキに気づいた。もうパンはすべて焼き終えたのか、片付けの最中のようだった。
アキは奏が『X-ROOM』に来てくれた件で礼を言おうとすると、荻は人差し指を口に当て、ウインクした。“何も言わなくていいよ”ということだ。ほかの人の前もある。荻の気遣いに感謝し、アキは『ブリュンヌ』を出た。
その足で今度は『ノアール』に向かう。奏も笑顔で迎えてくれた。
「アキがなかなか来てくれないから、毎日ミックスサンドの材料が余るんだよ」
と冗談を言う奏は嬉しそうだ。
「なんか…いろいろとごめんなさい。僕、また奏さんのサンドイッチ、食べに来てもいいですか」
「もちろんだよ! 今日は、そうだなあ…。エッグ・ベネディクト用のベーコンがあるから、それを焼いてあげるよ」
ベーコンが焼ける香ばしい匂いに、コーヒーのいい香り。ああ、『ノアール』に帰ってきたと実感する、懐かしい香りだ。
サンドイッチを作りながら、奏が尋ねた。
「アキ、ちょっと痩せた?」
「えっ…そうかな」
自分では気づかなかった。体重の減少はないにしても、顔がやつれ気味なのかもしれない。いろいろなことが起きすぎて、精神的についていけなかったせいだろう。
「また、仕事で無理してるんだろ」
仕事、と聞いて真っ先に東郷を思い出す。その瞬間、顔が赤くなってしまった。
「あ、あの…無理はしてないけど、仕事で…その、いろいろと」
「いろいろと?」
カウンターにサンドイッチの皿とコーヒーを置き、奏は頬杖をつく。
「なんだか、店長に迷惑ばかりかけてるみたいで…」
「もしかして、東郷さんに叱られた?」
「そういうわけじゃないけど…」
歯切れの悪い返事に、奏はアキの“困り事”が見えない。アキが長い間自分のことを想っていたことに気づかなかった奏には、恋愛ごとに関しては察知する能力が低い。
「話せないことなら話さなくていいけど、時々はここにおいで。愚痴ならいつでも聞くし。お店の中のことだったら、なかなか相談できる人も少ないだろ?」
「ありがとう、奏さん」
東郷のことを思い切って話してみたい。だが、東郷に想われていると話したら、奏も須美と同様に賛成するだろう。周囲から流されるようには付き合いたくない。男性と付き合った経験がないアキには、その先にあるものがわからない。結婚は望めず、周囲の誰にも恋人だと紹介できない。結局は昔の東郷と須美のように、セフレの関係に終わるのかもしれない。男女とは違う壁にぶち当たり、アキはその壁を越える術がわからない。
奏を好きだった頃には、付き合ったその先など考えたことがなかった。ただ単に、好きで好きで仕方がない、といった想いだけが先行していた。そこでアキは気づく。奏への想いは、優しく素敵な人への憧れ。淡い恋心で、本気の恋愛ではなかった。
東郷への気持ちは、いつか恋愛に変わるだろうか。もしも奏を好きにならなければ、片思いのつらさも知らず、東郷の想いも理解できずに真剣に考えたりはしなかっただろう。奏への片思いは、決して無駄ではなかった。
「奏さん」
カウンターの向こうで洗い物をしている奏に、笑顔で声をかけた。
「僕、奏さんに会えてよかった」
「よせよ、照れるだろ」
アキの笑顔に少し照れた笑顔を返す奏は、幸せそうだ。奏は荻と幸せに過ごしている。結婚はできなくても家族に祝福されなくても、幸せな道はある。奏を見ていて、アキはそう確信した。きっと、男同士でも大丈夫。
だが、そこで気づく。それではもうアキが東郷と付き合う、という前提ではないかと。
せっかく笑顔だったのに、アキはその場で頭を抱えてしまう。
「アキ、本当にどうしたんだよ。大丈夫?」
慌てて顔をあげ、笑顔を取り繕うとしたが、うまく笑えず変な表情になってしまう。小悪魔アキは、万華鏡の中でこそ魅力的な表情をくるくると変えてみせるが、実際のアキは不器用だ。自分を取り繕うのも下手だ。
「あ…その、大丈夫です…多分」
頼りない答えに奏は心配になるが、今のアキにはなんとなく、根掘り葉掘りは聞けないような気がした。奏は黙って洗い物の続きをした。
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