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第15話 歌(一)
家に帰って、洋服から狩衣に着替えようとした時、履き物の物入れが嵩張った。
あ。手拭い。
物入れから手拭いを出すと、はらりと桜の花びらが一枚散った。僕はそれを大事に拾い上げて、手拭いに包み直す。
この手拭いは、洗ってお返ししないといけないな。
「何か、分厚い書物はありませんか」
僕は家人に声をかける。
「は。どのようなものでしょう」
「何でも良いんです。押し花を作りたいので」
「畏まりました」
家人はすぐに戻ってきて、僕に二冊の辞書を差し出した。
僕は洋服のまま正座して、花びらを一枚一枚丁寧に広げて、本に挟んだ。二冊の辞書を重ねていると、先代がやってきた。
「充樹。着替えもしないで、何をやっている」
「はい、すみません。政臣さんに桜の花びらを頂いたので、押し花にしていました」
それを聞くと、先代は少し表情を緩めた。
先代のこんな顔、初めて見る。僕が『予備』じゃなく、『充樹』になったからかもしれない。
「そうか。政臣さんとは、上手くやれているか?」
「はい。動物園に行って、桜を見て、夕餉をご馳走になりました」
「政臣さんの言う事を、よくきくのだぞ」
「はい。その後、お勤めをした時、『愛している』と夫婦の誓いを立てました」
これは良い知らせだと思って言ったのだけど、先代は怪訝そうな顔をした。
「お勤め? 何処か、旅館にでも入ったのか?」
「いえ。自動車の中で」
先代がまなじりを決した。
その剣幕に、僕は自分が何か失態を犯したんだと悟る。
「自動車の中だと? そんな淫奔 な真似をしたのか?」
でも、僕は何が悪いのか分からない。
「お勤めは、お勤めの間でしか、してはいけないという事でしょうか? 神聖な儀式が、淫奔とはどういった意味でしょう」
先代は、一度瞑目してから、厳しい視線で僕を見た。
ああ。これは、『予備』だった僕を見る目付きだ。僕じゃやっぱり、『充樹』になれないんだろうか。
「きちんとした寝所 で行ってこそ、神聖なお勤めだ。政臣さんに、はしたないと思われてはいかん。今後は、そう肝に銘じて行動しなさい」
「はい。すみません」
叱られるかと思ったけれど、先代はそれだけ言って、話題を変えた。
「時に、充樹。明日、特別なお勤めがある」
「特別? 政臣さんとのお勤めでしょうか」
「ああ……政臣さんとのお勤めも特別だが、同じくらい特別なお勤めだ。女性とのお勤めをして貰う」
「えっ?」
僕は衝撃を受けた。僕が近しく接してきた人は、参拝者様も家人も全て男性で、女性とは母様以外、ほとんど口をきいた記憶もない。
「女性とお勤めをすると、子供が出来るのは知っておろう」
「はい」
「皇城の世継ぎを作って貰う。その為、一時的にその女性と結婚するのだ」
「ですが先代、わたくしはもう政臣さんと結婚しています」
「入籍するという意味だ。役所に書類を出して入籍し、七日七晩、その女性とだけ契る」
先代の言う事は絶対だったけど、僕の中で、政臣さんも同じくらい大事な人になっていた。
「それは……政臣さんを裏切る事には、ならないのでしょうか?」
「心配いらん。全てご神託の結果だ。よき日とよきお相手を選んである。お相手の事は、『お腹様 』とお呼びしなさい」
「分かりました。では、女性とのお勤めの仕方を、教えて頂けますか」
「それも、心配いらん。お相手は、お勤めの経験が豊富だ。黙って身を任せていればよい。この書類に、必要事項を書いておきなさい。明日の朝、役所に提出させる」
「はい。分かりました」
先代は、茶色の『婚姻届』と書かれた書類を座卓の上に残し、出て行った。
僕は洋服からいつもの狩衣に着替えて、まだ何も記入されていない、その書類をしげしげと眺める。
僕は政臣さんの『妻』だけど、女性と結婚するとなれば、僕が『夫』だろう。『夫になる人』の欄に、万年筆で必要事項を記入する。
その後、夢のような今日の逢瀬を思い出す。
そうだ。歌を詠んでみよう。
詠むと言っても、習った訳ではなく、新聞に載っていた短歌を真似て書き散らかしていたものだから、拙 いけれど。
見せる相手も居なかったから、お作法が正しいものか、間違っているのかさえも分からないけれど。
無性に歌が詠みたくなった。
硯 で墨をすって、帳面に筆で書き付ける。
うらうらと
光のどけき
園 で見ゆ
桜吹雪の
東風 の隧道
『うらうらと、のどかな光の降り注ぐ公園で見ましたね。春の風が吹く、桜吹雪の隧道 を』
ちょっと考えて、もう一首詠んだ。
林辺 の
麓 で契りし
君の名を
呼べば消え失す
夢のあとさき
『林の側の、山の麓 で契った貴方の名前を、呼ぶと儚く消えてしまう。逢瀬の前には憧れていられたものを、経験し終わってしまえば何とも虚しく切なくなり、もう前 の自分には帰れないものだ』
政臣さん。次は、いつ?
歌に詠んだ通り、切ない胸騒ぎに心を焦がしながら、家人の敷いてくれた布団に入ったけれど、夜半過ぎまで眠れずに過ごした。
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