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第30話 痛み
「珠樹。何故、逃げなかった」
次の日、木枠を間に挟んで、先代と膝を突き合わせる。人払いがしてあった。
先代が、座敷牢に入る事はない。
布団の上げ下げや膳を据えるのは、家人がやってくれていた。
「わたくしと充樹が同時に外に出てしまえば、政臣さんに秘密が知られてしまいます。それに……もう政臣さんと会えないなら、燃えて尽きても構わないと思いました」
これは嘘じゃない。僕は凜と顔を上げて言った。
先代は何か思案するように長く瞑目してから、溜め息と共に言葉を吐き出した。
「珠樹。お前は政臣さんに、趣味が短歌だと言ったそうだな」
「はい。わたくしの趣味は、短歌です」
先代は、そんな事すら知らなかった。僕が予備の子だったから。
「昨日、政臣さんは、充樹とお勤めをしないで帰られた。充樹がお勤めの間に入る前の出火だったからな」
こんな事を思ったら、天罰が当たるかもしれないけど……例えようもなく、嬉しい。政臣さんは、お勤めを僕としかしないつもりなんだ。
先代は続ける。
「政臣さんは帰り際、言い置いていかれた。次の逢瀬では、寝物語に充樹の短歌を聞きたいと。珠樹、何か歌を詠みなさい」
これは、政臣さんが垂らしてくれた、蜘蛛の糸に思えた。
僕はやや語気を強める。
「短歌は、易しいものではありません。全く知識のない充樹が、細 やかな解釈を説明出来るとは思えません。わたくしは、物心ついた折から十五まで、短歌を続けて参りました。わたくしにしか勤まらない行いだと思います」
じろりと、先代の目付きが険しくなった。
ああ、厄介だ。
そんな眼差しだった。
「……では、充樹とのお勤めが終わった後、歌を詠みなさい。お前は前室に控えていて、充樹が厠に立ったら、頃合いをみて入れ替わる。その内、短歌はやめた事にする。もう二度と、政臣さんと契る事は許さん。お前はあくまでも予備なのだ。わきまえなさい」
「……はい……」
まさか、歌だけ詠まされるとは思わなかった。
自分に誇りを持って上げていた視線は下がり、膝の上の指先に落ちる。手入れを欠かさない爪は、短く切り揃えられ、ぴかぴかと光っていた。
でももう、政臣さんにも参拝者様にも見られる事のないその爪は、何の為に磨くのだろう。虚しかった。
「では、せいぜい今の内に、歌を詠んでおきなさい。お前の役目は、身体ではなく筆で、政臣さんを満足させる事だ。お前の身体は穢れている。新妻 には、相応しくない」
「穢れている? 何故、わたくしは穢れていて、充樹ならよいのですか? 何が違うのですか? 教えてください、先代。分かりません」
きゅっと拳を作って、零れそうになる涙を堪えながら、先代を見上げる。
「それは、知らずともよい事だ。今まで通り、ご神託に励みなさい。お勤めはなくなるが、笹川だけで我慢するのだ」
「知りたいのです、先代。教えてください、お待ちください、先代、先代っ!」
「大きな声を立てるな。少しばかり日の目を見て、欲が出たか。全く、厄介な……」
先代は話半ばにして、立ち上がり去っていった。
「先代っ!」
僕は木の格子に縋り付き、泣き叫ぶ。
やがて家人が戻ってきて木枠の外に腰かけたけれど、僕には一欠片も興味がないみたいに、何を喚いても無駄だった。
僕は午後の太陽がすっかり橙色 に燃え落ちるまで、泣き続けた。
前室で待つという事は、充樹と政臣さんのお勤めの声が聞こえてくる筈で、そんな痛みに耐えられるかどうかは、想像するだけで心臓が止まってしまうのではないかと思えるのだった。
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