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第33話 林檎
どんなに悲しくてもお腹が空くように、どんなに悲しくても笹川さんとのお勤めは続く。
次の日、人払いした座敷牢に笹川さんがやってきて、いつものように僕を先導してお勤めの間の前室に入った。
かろうじて、お勤めの前の決まり事、口をすすぎ手を洗って、長い黒髪に櫛を通す事は許されていた。
これは『穢れ』なのだと知ってしまった今、もう気休めでしかなかったけれど、心の海原を荒れ狂う悲しみの波を、さざ波に抑える程度の役には立った。
のろのろと、なるべく時間をかけて仕度する。
そうやって一分一秒先延ばしにする以外、僕には抗う術がなかった。
仕度が調ってしまえば、僕は笹川さんの開けた襖を抜けて、金糸銀糸の広い布団が敷いてあるお勤めの間に入る。
虚ろな視線で笹川さんの顔を直視出来ないまま、平伏して形式的に言った。
「よろしくお願い致します」
昨日、政臣さんに殴られた笹川さんの顔は、目の周りが紫色に腫れ上がっているようだった。
政臣さんが、僕の為に働いた狼藉だから、今日は酷くされるかもしれない。
また慣らさないで、挿れられるのかな。
僕は顔を上げる気にもならず、平伏したまま、笹川さんの言葉を待っていた。
「予備様」
「はい」
「いえ……珠樹様」
「えっ」
思わぬ言葉に、ぱっと顔を上げて見ると、笹川さんの表情は悲しいような、痛ましいような、複雑な色に揺れていた。
家人から『珠樹』の名で呼ばれた事など、一度もなかった。
「珠樹様」
「は、はい」
「昨日の事、お許しください。珠樹様は何も知らぬのに、口が過ぎました」
「いえ。先代がわたくしの事を『穢れている』と仰っていたので、何故なのか、知りたいと思っていた所です。それに、罰はわたくしの代わりに、政臣さんが」
ようやく笹川さんの顔を子細に観察すると、両目の周りが紫色に腫れ上がっていた。
僕は不意にある光景を思い出して、薄く笑む。
「罰とはいえ、暴力はいけません。政臣さんの代わりに、お詫び致します。……まるで、ぱんだのようですね」
「パ、パンダ?」
「はい。政臣さんとの逢瀬で、上野の動物園に連れて行って頂きました。あの時一緒に見たぱんだの赤ちゃんの事は、一生忘れられません」
笹川さんは、肝を潰したようにしばらく黙りこくっていたけれど、僕の表情を見て、目を細めた。
「珠樹様。それほどまでに、藤堂様の事を」
「ええ。愛しております。神子である私は、参拝者様がたに等しく心を砕くのが、勤めだと思って参りました。愛や恋というものは、新聞連載の物語にだけ出てくる、一般の方の心持ちなのだと。でも……いつしかわたくしは、政臣さんの居ない人生を受け入れるのが困難なほど、あの方を愛してしまいました」
「そうですか。実は……」
笹川さんが、視線を泳がせる。これから言いにくい事を言うのだと、分かった。
何だろう。僕は小首を傾げて待つ。
「実はあの後、充樹様と内密の話をしました。十五の時から充樹様にお仕えする内、私は充樹様に想いを寄せるようになりました。充樹様も私を近しくお側に置いてくださいました。でも皇城の当主と家人、叶わぬ想いと諦めて、充樹様と同じ顔を持つ珠樹様を、代替えにしていたのです」
「笹川さんも、充樹を愛しているのですね」
頬に仄かに朱が差す。
ああ、笹川さんも、叶わぬ恋をしている。
だけど次の言葉は、想像もつかない夢物語だった。
「はい。昨日、充樹様が、身をていして私を庇ってくださった事に、お礼申し上げた所……充樹様も、私を想ってくださっていると仰られました。私と結ばれる為なら、珠樹様と入れ替わって、一生を座敷牢で過ごしても構わないと……」
「えっ」
「利害が一致したのです。お二人が入れ替われば、珠樹様は藤堂様と、充樹様は私と契る事が叶う。そう計画を立てました」
途方もない話に一瞬瞳を瞬いていると、前室の襖が開いて、驚いた事に充樹が入ってきた。
「笹川。話したか」
「はい、充樹様」
「珠樹、そういう事だ。入れ替わろう」
「本当に、一生をあの座敷牢で過ごしても構わないと……?」
「ああ。長話はする暇がない。厠に行くふりをしてきたから、すぐ部屋に戻れ」
「はい」
急かされて、僕は立ち上がった。代わりに充樹が座る。
ここは、お勤めの間。これから二人は、想いを遂げるんだろうと思い当たって、部屋を出る前に、祝福を贈った。
「充樹。笹川さん。お幸せに」
二人ははっとしたように顔を見合わせて、林檎みたいに真っ赤になった。
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