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第6話 初恋

 夢を見ていた。まだお勤めに出ていない幼い頃、母様に頭を撫でられている夢を。  母様は僕を可愛がってくれたけど、先代は僕の前で笑った事さえなかった。  やがて僕がお勤めに出るようになると、母様は度々僕の前で泣くようになって、だんだんと離れていった。  僕は笑って欲しくて、誉めて欲しくて、お勤めが上手になったと話したけれど、それきり母様が僕の所に来る事はなくなった。  その、面影だけぼんやりと覚えている母様が、僕の頭を撫でてくれている。  酷く心地良くて、目覚めたくないと思った。 「母様……」  大きな掌に、擦り付けるように頭を寄せる。すると掌は、優しく髪を梳いてくれた。 「ん……」  瞼を開けると、ぽっかりといつもと違う景色が見えた。  金糸銀糸の布団を被り、僕は人肌に触れている。  頭を撫でられて、夢の続きかと思いながら、目線を上げた。 「おはよう。充樹」 「あ……!」  僕は驚いて、抱き付いていた政臣さんから跳び離れた。  くつくつと、政臣さんが笑う。 「夢、見てたのか。母様、って言ってたぞ」  僕は急激に、かあっと頬を火照らせた。  政臣さんの手、だったんだ。 「は……はい。幼い頃に生き別れた、母の夢を見ていました」 「そうか。それは、笑っちゃいけないな。頭を撫でて欲しくなったら、俺に言え。幾らでも撫でてやる」 「はい……あ! おはようございます、政臣さん」  僕は非礼を思い出し、布団から飛び出して、慌てて平伏して挨拶をした。 「おっと。良い眺めだが、朝からは目に毒だな」 「はっ」  言われて気付くと、僕は全裸だった。慌てて布団に潜り込む。 「す、すみません!」 「全くだ。今すぐにでも抱きたい所だが、もういい加減起きないと、体裁が悪い。身体は、大丈夫か?」  昨日が初めてのお勤めだと思っている政臣さんは、僕の身体を気遣ってくれる。  確かに、おぼろげに覚えている本当の初めての時は、凄く疲れたし、身体が痛かった。  僕は後ろめたさに視線を逸らしながら、答える。 「はい。大丈夫です」 「じゃあ、俺はそろそろ帰る」 「えっ。朝餉(あさげ)は食べていかれないのですか?」 「ふふ。もうブランチの時間だけどな。会社がある」  政臣さんは布団から出て、すっと立ち上がり、下着を履いた。  ところが、袴を上げて、しばし止まった。 「すまない、充樹。狩衣なんか初めて着たから、着方が分からない。着せてくれないか」  政臣さんの困り顔は、何だかとても可愛かった。  可愛い? 人を可愛いなんて思ったの、初めてだ。  特別なお勤めをした政臣さんは、僕の特別な人になっていた。 「少々お待ちください。まず、僕が衣を着ますので」  政臣さんに背を向けて、着慣れた袴と狩衣を、手早く身に着ける。  本来は人に着付けて貰うのが正式な形だったから、自分で着られなくても無理はない。  僕は要領よく、政臣さんの狩衣も着付けてあげた。 「いつも、この服を着ているのか?」 「ええ。皇城家の者は、家人に至るまで、みな狩衣を着ています。政臣さんは、着ないのですか? 背広でしょうか」  僕は狩衣の他には、参拝者様が着てくる背広しか見た事がなかった。 「ああ、会社に行く時はな。普段は、ジーパンを履いてる」 「じーぱん? とは何でしょう」 「ジーパンを知らないのか?」 「はい。勉強不足ですみません」  格子で仕切られ南京錠のかけられた自分の部屋と、お勤めの間しか知らない僕は、きっと世間の事を知らないんだと思う。   『努々、外に出たいなんて思うな』  先代の言葉が脳裏に掠めるけど、お話を訊くくらいなら。僕は、好奇心を抑えられなくなっていた。 「丈夫な生地で出来た、ワークパンツだよ。街にこの格好で出る訳にはいかないから、デートの時は充樹も履けば良い。今度来る時は、充樹に似合う普段着を買ってきて、プレゼントしよう。誕生日プレゼントだ」 「贈り物を下さるのですか? 良いのですか!?」  僕は、最低限の衣食住以外に、贈り物を貰った事などなかった。新聞は毎日何紙か差し入れられたけど、僕に見せたくない大部分は黒く塗り潰されていた。  胸の前で手を合わせて、今までにないほどはしゃぐ僕に、政臣さんは可笑しそうに噴き出した。 「そんなに喜んでくれるとは、充樹は安上がりだな。これなら俺の安月給でも、充樹を満足させる事が出来そうだ」 「値段なんか、関係ないんです。政臣さんから頂けるなら、野の花でも嬉しいです」  そう言うと、政臣さんは優しく笑った。この笑顔は、僕の中で『特別』で、大好きになった。  そのまま額に口付けられると、息が苦しくて、動悸がする。  こんな心地は初めてで、病気じゃないとしたら、これは『恋』というものではないんだろうか……?  僕は思いきって、背伸びして政臣さんの頬にお返しの接吻を贈った。 「じゃあ、また。充樹。愛してるよ」  次は、いつ? そう訊いてしまいそうになる言葉を喉の奥でとどめて、僕たちは名残惜しく握った手を伸ばして求め合いながら、その日は別れた。  政臣さんの唇の触れた額が、いつまでもじんわりと暖かかった。

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