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第7話 予備
控えていた家人は、政臣さんが帰ったのを知ると、僕を見た事もない部屋に案内した。
三十畳余りの広くて、掛け軸のかかった床の間のある豪奢 な、金糸銀糸のふかふかの座布団のある、濡れ縁から庭の見える明るい部屋だった。木の格子も、南京錠もない。
年輪の見事な一枚板の座卓があって、上座だから、これはお客様の座る座布団だろう。
何処に座ろうか、僕用の座布団を出して貰おうか、控える家人に訊こうとした時、足早に先代が入ってきた。
「充樹。座りなさい」
そう言って、ふかふかの座布団を目線で示す。
えっ。僕が上座?
戸惑いながらも、有無を言わせぬ口調に、そろりと正座する。
先代は家人がさっと敷いた、ふかふかじゃない普通の座布団に座って、向かい合った。
「人払いを」
家人たちが、一礼をしてそそくさと下がっていく。
昨夜 と一緒だ。先代は、何かを秘密にしたがってる。何を?
「珠樹。よく聞きなさい」
昨夜と同じ言葉。
「はい」
先代は厳しい顔つきで、僕をじっと見据えて言った。
先代が優しい顔つきだった事なんて、なかったけれど。
「珠樹。お前が、ヨビとしての役目を果たす時がきた。お前はこれから、充樹として生きるのだ」
「すみません。仰っている意味が、よく分かりません。よびとは、わたくしの呼び名では?」
「ああ……意味が分かっていなかったのだな。『予 め備える』と書いて、予備だ。お前は、皇城家の予備の子として生を受けた。だが本物の充樹は、もう使いものにならんだろう。今までの生活は忘れ、充樹として生きなさい。ご神託を授かる能力はお前の方が上だから、占いは今まで通りお前が行う。お勤めについては、二十歳の誕生日を機に廃止する事にしよう」
言われた瞬間、直腸の奥が疼くような気がした。
何よりも、僕にしか出来ない神聖なお勤めを突然やめろと言われても、納得がいかなかった。
「待ってください。お勤めに励めと仰ったのは、先代です。今、お勤め出来る喜びを奪われたら、わたくしは死んだも同然です」
勇気を出して反論すると、先代は初めて、少し柔らかい表情になった。何だろう……哀れむような。
「そうか。では、お勤めは続けなさい。ただし、政臣さんには気取られぬようにして、『珠樹』という名は忘れなさい。よいな」
「はい」
「では、充樹。これより、ここがお前の部屋になる。皇城家九十九代目当主、『皇城充樹』として。お勤めは徐々に減らしていって、いずれなくなる。政臣さんとのお勤めだけで満足出来るよう、身を慎みなさい」
政臣さんとのお勤めだけ? 確かに政臣さんとのお勤めは、感じた事のない喜びに満ちていたけれど、僕の聖液の御利益を求めている他の参拝者様は?
先代の物言いが少し疑問だったけれど、発する前に断ち切られた。
「厠 は、部屋を出て左の突き当たりだ。充樹は昨日倒れたから、記憶が曖昧だと家人に言い含めてある。分からない事があったら、家人に訊きなさい。よいな、充樹」
「はい」
先代は、それだけ言って出ていった。
やがて影のように、家人たちが戻ってくる。
僕は部屋を、しげしげと見回した。
……あ! 玉砂利がある。
僕は、政臣さんとの会話を思い出した。
『趣味は、ご神託の占いです。わたくしの役目ですから』
政臣さんの笑顔を思い出すと、何だか心が暖かくなる。
僕は陶器の器を引き寄せて、気が付いた。
これ、僕の使ってた玉砂利だ。器は一点ものの有田焼だったから、見慣れた模様を見紛う事はない。
早速、僕は玉砂利を掬って畳に零した。
自分に関するご神託を授かる事は出来なかったけど、政臣さんの事を占ってみた。
『三日後に再訪する』と出た。嬉しい。三日後に、また会える。
それから僕は玉砂利を片付け、フカフカの座布団に座って、座卓の上に乗る大ぶりな蜜柑を眺めた。
ここは僕の部屋だから、食べても……良いんだろうな。
「この蜜柑は、何処のものでしょう」
さりげなく、家人に訊く。
「は。愛媛産でございます。充樹様のお好きな、甘い品種を揃えました」
「そうですか。いただきます」
剥いた皮は、家人がサッと片付けてくれた。
『珠樹』だった僕の部屋では、三食以外に、間食などした事がない。だからちょっと罪悪感にも似た思いを抱きながら、口に運ぶ。
「甘い!」
思わず、びっくりして独りごちてしまう。
褒め言葉と取った家人が、恐縮して一礼した。
「勿体ないお言葉にございます」
甘い蜜柑を食べながら、先代が言った言葉を整理する。
僕は、皇城の『予備』の子だった。
僕が『予備』だという事は、何処かに『本物』が居る訳で。
記号でしかなかった呼び名が、心の中で、どんどん符合していく。
『本物』が『充樹』で。『予備』の僕が『珠樹』で。
充樹に何らかの不具合が起きたから、僕が充樹になって生きていく。
充樹は今、何処でどうしているんだろう。
予備から本物になった僕はともかく、見捨てられた『充樹』が心配だった。
先代は、厳しい人だから。
「充樹様。お勤めでございます」
だけど、僕の考えは、その言葉に中断された。
「はい。参ります」
条件反射で応えて、僕は立ち上がった。
お勤めと聞いただけで、僕の身体は、奥の方がひくひくと疼くのだった。
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