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第13話 紅色
初めて乗った時は、慣れない斜めがけの帯と、政臣さんの真剣な横顔に緊張していたけれど、再び乗った自動車にはだいぶ慣れてきた。
駐車場から車を出して、政臣さんが訊いてくる。
「何か、食べたいものはあるか?」
「夕餉をご一緒出来るんですか?」
「ああ。皇城さんの許可は取ってある」
ひとつ、食べてみたいと思うものがあった。でもこの間、新聞に値上がりしたって載っていた。
僕は勇気を振り絞って、政臣さんの横顔に言ってみる。
「は、はんばーがーというものを……食べてみたいです」
「ハンバーガー?」
「あっ、あの、高価なものだったら、遠慮します!」
あ。政臣さんが前方を見たまま、楽しそうに笑った。
良かった。気を悪くしたんじゃ、ないみたい。
「ハンバーガーは、高価なものじゃない」
「でも、随分値上がりしたって、新聞に載ってました」
「ああ、昔に比べればな。ハンバーガーは、大衆向けの手軽な食事だ。そうだな……確か近くに、ドライブスルーがあったな」
「どらいぶ……何ですか?」
「ドライブスルー。車に乗ったまま、注文して、受け取って、食べられるんだ」
「自動車に乗ったまま、ですか?」
僕は想像力を全回転 させてみたけれど、どんなものかさっぱり分からなかった。
自動車に乗ったまま、食事するってどういう事だろう。
うんうんと唸って考えていると、政臣さんが楽しそうに言った。
「充樹、初めてで分からないだろう。好きなものと嫌いなものを言ってくれ。俺が注文してやる」
「はい。好きなものは、魚と野菜です。嫌いなものは、ありません」
「じゃあ、フィッシュバーガーのサラダセットだな。飲み物は、紅茶で良いか?」
「あの、日本茶はありませんか?」
「あ-、日本茶はないな。烏龍茶ならある」
「中国茶ですね。では、それを」
「よし」
見ていると、英語の名前のお店の駐車場に、方向指示機 が出された。
曲がって停めるのだと思っていたら、駐車場には入らず、自動車はお店の横に作られた細い道路に入っていった。
『いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ』
お品書きの看板の横に自動車を停めて、窓を開けると、女性の声が尋ねてきた。
え? 思わずきょろきょろと辺りを見回すけれど、誰も居ない。
政臣さんは窓から片肘を乗り出すようにして、注文した。
「ビッグチーズバーガーを、ポテトLセットで。ドリンクは、ホットコーヒー。あと、フィッシュバーガーをサラダセットで。ホット烏龍茶でお願いします」
『畏まりました。受け取り口までお進みになって、お待ちください』
自動車は、細い角を曲がって、ようやく人の居る窓口に停まった。
お金を払っている間に、もう調理が終わったのか、紙袋が三つ、渡された。
「充樹。持っててくれ」
「は、はい」
慌てて、受け取る。
「ありがとう」
細 やかに店員さんにお礼を言って、自動車は道路に戻って走り出した。
「どうだった? 初めてのドライブスルーは」
僕は数瞬、絶句した。訳が分からない!
「……こ……これを、自動車の中で食べるんですか?」
紙袋を抱えて、語尾にはてなが沢山ついている僕の声に、政臣さんがくつくつと笑った。
政臣さんは楽しそうだけど、僕は何が何だか分からない。
唇を尖らせて訴える。
「政臣さん、笑ってないで教えてください。さっぱり分かりません!」
「ああ……充樹ごめん、怒るな」
怒る? 僕は先代の言いつけに従ってきて、怒るという感情を持った事がなかった。
僕は今、怒っている?
「お前を驚かせたかったんだ」
「凄く、驚きました」
僕は先代に叱られたら悲しかったけど、政臣さんは、相変わらず楽しそうだ。
「……でも、お前と喧嘩が出来て嬉しい」
「それも、驚かす言葉ですか? 喧嘩をしたら気分が悪くなる事くらい、知っています」
「いや、違う。悪かった、許してくれ。小さな喧嘩は、親しくならないと出来ない。心が通った証拠なんだ」
「え……そうなんですか?」
僕はすっかり人間不信になって、注意深く政臣さんの横顔を窺う。
「ああ。許してくれるか?」
ちらりと、涼しげな流し目と目が合った。甘やかな表情。
僕は、これに弱いみたい。鼓動が速くなった。
「……許してあげます。だから、どうやって食べるのか、教えてください」
「良かった」
政臣さんは頬を緩めて、また方向指示機を出した。
「本当は店で食べても良かったんだが、充樹を驚かせたかったんだ。車を停めて、一緒に食べよう」
砂漠の中の緑地みたいに、そこだけ緑の緩やかに上る林沿いの道に入って、自動車は停まった。
「充樹、中身を出して」
「はい」
紙袋を開けて暖かい紙の湯飲みを政臣さんに渡すと、運転席と助手席の前の真ん中にある、二つの筒の中に二つの湯飲みが収められた。
「この為の筒なんですか?」
「ああ。この辺は、外回りの仕事でたまに通るんだ。昼食を食べて、昼寝するには、ここは丁度良い道なんだ。会社や皇城さんには、内緒だぞ」
政臣さんは、悪戯っぽく片目を瞑った。
わ。何だか凄く、格好良い。
頬がまた火照るのを誤魔化す為に、僕は無言でもう一つ紙袋を開けた。紙で包まれた、丸くて暖かいものが入っていた。
「これは?」
「これが、ハンバーガー。そっちはサラダだ」
なるほど。残りの一つを開けると、透明な器に生野菜が詰まっていた。
「充樹のは、フィッシュバーガー。魚のフライが、パンに挟まってるんだ」
「ぱん……!」
僕は色鮮やかな包みを開いて、憧れのはんばーがーを見詰めた。
とてつもなく、美味しそうだ。
「ひょっとして、パンも初めてか?」
「はい。いただきます」
上に乗ったぱんを一枚めくって食べようとしたら、政臣さんに止められた。
「ああ、そうじゃない。こうやって食べるんだ」
政臣さんは、僕のより厚めのはんばーがーを、大きく口を開けて一息にかじった。
そんなに口を開けて食事をした事がない僕は、目を見張る。
「えっ。一枚ずつでは駄目なのですか?」
「駄目って事はないけど、こうやって食べるのが普通なんだ」
「へぇ……そういうお作法なんですね。お蕎麦を食べる時に音を立てて良いのと、一緒ですね」
そんなに、口開くかな。あ、お勤めで口を使う時だと思えば、開くか。
思いきって口を開けて、はむっとかじった。
「どうだ?」
口の中にものを入れたまま喋っちゃいけません、と母様に躾けられた僕は、急いで咀嚼 する。
「ああ……すまない。急がなくて良い、ゆっくり食べろ。充樹、リスみたいだな」
操舵輪 にもたれて、政臣さんは肩を揺らす。
よく噛んで、飲み込んで、僕は幸せになった。
「美味しいです……! 暖かい内に、政臣さんも食べてみてください!」
「あはは。俺は週一くらいで食べてるぞ」
そう言って、また口を大きく開ける。
「こんなに美味しいものを、週に一回も、食べてるんですか?」
「安いからな。でもジャンクフードって言って、あまり健康的とは言えないから、充樹も食べるのはたまににしような」
政臣さんの口が大きく開いて、紅色 の舌がちろりと見える。
ああ。何でこんなに幸せなのか、分かった。
政臣さんのこのお口に、僕の聖液が入るのかと思うと、身体の芯が沸々と熱くなるのだった。
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