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第61話 あの日の記憶
ノアの三歳の誕生日。そして、レヴィとの婚約式の日。本来なら、この二つの出来事で、あの日はとてもとても幸せな一日になるはずだった。
屋敷を出る時に母から言われたのは、「きっとノアは落ち着いていられないだろうから、私がしっかり様子を見ていなさい」ということだった。それは、その時まで普通にやってきたことだけに、『何度も言わなくても大丈夫なのに』と、少しばかり拗ねた気分になっていたのを覚えている。
母と私がノアのところに着いたのは、パーティが始まる一時間前。準備に忙しくしているだろう、ノアの母のために、私の母が早めに手伝いに行ったのだ。
『身内だけの小さなパーティにしたいの 』
それがノアの母、フローラの望みだった。周囲の者は、彼女のどんな小さな望みでも叶えようとした。それは、私たち獣人に比べ、とても華奢で小柄なフローラが、嬉しそうに微笑む姿を見るだけで、幸せな気分になれたから。彼女の一番の親友だった母だけではなく、周囲の獣人たちも同じように微笑み返したものだった。
いつも通りに、母が屋敷の呼び鈴を鳴らす。いつも通りなら、パタパタとノアが駆けてくる足音が聞こえて来て、ドアを開けた途端に『エリィ!』と満面の笑みを見せてくれるのに、その日に限って、いつまで経っても、誰も出てこなかった。
けして大きな屋敷ではないから、と、 ノアの父親は使用人は二,三人程度しか雇っていなかった。ノアが出てこなくても、その代わりに誰かが出て来てもいいのではないか、そう不審に思った頃、母が玄関のドアノブに触れた。
「あら?開いてるわね」
母が小さく呟きながら、ドアを開けた。
「フローラ?いる?私、マリーだけど」
母が声をかけながらドアを開けたと同時に、鉄のような匂いが流れて来た。何の匂いだろう?と不思議に思いながら、母がドアの中に入っていく後についていこうとした。
「っ!?」
母の後ろにいた私は、せっかくドアを開けたのに、その先に進もうとしない母の顔を見上げた。ひどく驚いた顔で目を大きく見開いて、どこか一点を見ていた。
「母上?どうしたの?」
私は声をかけながら母の前に身をのりだし、母の見ている、その一点を見ようとした。
「エリィ!見てはダメっ!」
そう言って、私を抱え込む母の身体は、小刻みに震えていた。しかし、母が私の視野を阻む前に、私は見てしまった。
いつもノアが走ってきた白い床、家族写真の飾られた白い壁、天井でキラキラと輝いていた照明ですらも、赤い色に染まっているのを。そして、目の前には、鋭利な刃物のようなもので切り刻まれ、血まみれで倒れ込んでいるノアの父親、白金の狼、リーナスの姿を。
母は震えながらも私の肩を抱きながら、隣家に駆け込み、どこかに連絡を入れていた。警察だったのか、王宮からだったのか、制服を着た者たちが大勢押しかけてきたのを覚えている。結局、リーナスと、その日勤めに来ていた使用人全てが殺され、 屋敷の中に生き残っていた者は誰もいなかった。しかし、殺された者の中に、フローラとノアの姿は見つからなかった。
その後、父から聞いた話では、恐らくフローラたちをドアから逃がした後、リーナスが敵を迎え撃ったのだろうと。敵が二人を追いかけないようにするために。
本来、王家の者は、魔力もさることながら、戦闘能力もかなり高い。その王家の者であるリーナスが殺された。リーナスの切り刻まれた姿からも、かなり激しい戦いだったと思われた。しかし調べてみると、リーナスは何か薬を飲まされたのか、筋肉を弛緩させるような薬物が検出されたという。そうでもしなければ、あの、白金の大柄な狼をしとめることなどできなかっただろう。
事件当時のニュースでは、『リーナス・ハウ』で報道されたため、普通の一般家庭で起こった殺人事件として取り扱われた。そのために、時間が経てば経つほど、人々の記憶から、リーナスたち一家の事件は忘れ去られていった。
しかし、王家に連なる者は忘れることなどできはしなかった。長い間、殺人犯探しと、フローラとノアの探索は続けられたが、残念ながら、まったくと言っていいほど痕跡は見つけられなかった。
あれから十年近く経って、ようやく見つかったのが、ノア、君だった。
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