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〈side:Rika〉
始終愛想笑いで仕事を終えて家に帰ると、誰もいないはずのリビングに明かりが灯っていた。いつもなら自分の部屋にいるはずの慧君が、今日は俺の家にいる証拠だ。
どうやら珍しいことに、彼の方から自発的に来てくれたらしい。その理由は後々しっかり口と身体から聞き出すとして、やはり帰って初めて見る景色が最愛の人だと格別だ。
いわゆる疲れも吹き飛ぶってやつ。一切顔には出さないけれど、俺の心の中は花畑状態。恋愛って素晴らしい、なんて陳腐なセリフが頭の中を駆け回っている。
「ただいま、慧君」
妙に甘ったるい声色に、分かりやすい自分が恥ずかしい。けれど肝心の慧君はこちらの様子に気づくことはなかった。
「ん、おつかれ」
「それだけ?どうせなら、お帰りなさいのキスをくれてもいいんだけどな」
「は?誰がするか」
「もちろん、キスの後はお決まりのアレね。ご飯にする?お風呂にする?それとも俺?ってやつ」
「うるさい。いいから離れろ、暑い、ウザい、うっとうしい」
「ウザいと鬱陶しいは同意だと思うけど、そんなおバカな慧君ですら愛おしいから困った」
ソファに座る慧君を後ろから抱きしめていた俺は、強引に引き剥がされることになった。けれど、尖らせた口で連ねられた文句は、慧君の照れ隠しだと分かっている。素直になれない彼の、可愛らしい反抗にも慣れたものだ。
「これだけ涼しい部屋にいて、暑いなんてことはないと思うけどね」
寒がりなくせに冷えた部屋。気に入りのブランケットに包まり、例のクッションを抱える慧を見る。
「まあ、今は許してあげよう。でも今日は一緒に風呂に入ろうね」
ソファの背凭れにジャケットを掛け、外したネクタイも添える。鞄は凭れ掛けるように置き、背後から慧君の顔を覗きこんだ。
「慧君、お返事は?」
「そんなの改めてする必要ねぇだろ。言わなくてもわかってるくせに」
「わあ、珍しく慧君が素直だ」
「うっせぇ。返事は『やだ』だから。お前と一緒に入るのは、絶対にやだ」
抱えていたクッションを顔に押しつけられる。そこから慧君の匂いがして、俺は大きく息を吸いこんだ。元々の体温や体臭が違うから、同じ香水を使っていても慧君と俺の香りは全然違う。
慧のそれは、控えめにつけられた甘い香りの中に、温かさを感じる。男というよりは少年に近い青さとか、太陽の匂いだとか。人間らしくて、温もりのある慧の香りが好きだ。
冗談でなく、この香りの柔軟剤が発売されたらいいのにと思う。そうすれば服やシーツ、下着からも慧君の匂いがして幸せなのに。
……いや、駄目だ。そんなことをしたら、慧君の香りを身に纏うやつが増えてしまう。この芳しい香りは、俺と慧君だけの秘密にしなくてはいけない。
「リカちゃん。クッションに顔埋めながら固まってんの怖いんだけど」
非常に恐ろしい想像をしていた俺を心配してくれる慧君の声。ああ可愛い。普段はクソ生意気で偉そうなくせに、根は優しい慧君は可愛いの最高峰に君臨する。
「どうしよう……クッションから慧君の匂いがする。今度から慧君と眠れない時は、この子を抱いて寝ることにしようかな」
「変態。人の匂いで深呼吸すんな」
「慧君は俺のものなんだから、慧君の匂いも俺のもの。つまり、これは自分の匂いを嗅いでいるのと同じなんだよ」
「…………なあ、そっちの方が変態度が増した気がするんだけど」
バカじゃねぇのって、慧が笑う。数か月前、まだ話すらまともにしなかった時と比べると、その顔は穏やかで親しみを感じる。ああ、こうして2人でいることが、この子にとって『当然』になったのだと、そう思った。
そして、それと同時に今がとてつもなく『幸せ』なのだとも。当たり前の日常が幸福で満たされているなんて、過去の自分が知れば驚愕するだろう。鼻で笑って信じないかもしれない。
けれど、誰が何を言おうとどう思おうと、今の俺は幸せな時間を生きている。
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