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〈side:Rika〉 「慧君」  慧がこちらを振り返り、名前を呼ばれたことに首を傾げる。俺はそれに笑いかけると、明るく染められた髪に指を通した。滑らかでサラリとした質感の髪が指と指の間を通り抜けていく。 「ただいま、慧君」  目と目を合わせて言葉を交わせる喜び。ただいまと言えば、おかえりと帰ってくる幸せ。当たり前のようにある今が、本当は当たり前のことではない。  こうして過ぎていく時間は、目には見えないけれど、かけがえのない宝物で。気づかない内に壊してしまわないよう、大切に、大切にしなければいけない。 「それで慧君。さっきの夕飯にするか風呂にするか、それとも慧君にするかって話だけど」 「は?それはリカちゃんが勝手に」 「夕飯の前に、少しだけ慧君を貰いたいな」  文句が返ってくる前に、慧の唇を自分のそれで塞ぐ。冷えた部屋にいたくせに、すぐに熱くなる肌に触れ、ふつふつと欲望が湧いてくる。 「……っ、ん……ふ、リカ…っちゃん」  漏れる水音と鼻にかかった慧の声を聞きながら、甘く穏やかな時間に身を任せる。告げたはずの『少し』が守られるかどうかは慧次第で、俺としては先を求められるのは喜ばしいいことで。どっちに転んでも楽しめるのは、慧のおかげ。  それでも今日も慧君は慧君で、それでこそ慧君だった。 「リカ、ちゃん……んぅ、あっ……待って。俺、もう限界」 「まだ大丈夫。慧君は、ヤれば出来る子だから」 「それ……ッ、意味がちがっ……そうじゃなくて」  舌が絡む合間に交わす会話の後に響くのは、ぐぅ、という可愛らしい音。愛しのウサギちゃんが奏でた腹の音に、しっとりとした口づけの時間は終わりを迎えた。 「なんか………………悪い、その……こんな時に」  気まずそうに顔を伏せながら、けれど見える耳を赤く染めて慧が言う。恥ずかしさを全面に出した慧君を、誰が責めることができようか。そんなことをするやつがいたら、俺が葬ってやる。 「いいよ。俺も腹が減ったし早く食べよう。すぐに作るから慧君はテレビでも観てて」 「俺も手伝う」   「慧君に頼んだら、野菜は全てゴミ箱行きになるからだーめ」 「全部じゃないし。少しは残すし」 「それは胸を張って言うことじゃないね」 「っ……もういい!せっかく手伝ってやろうと思ったのに!」  なんて言って慧君は怒ってしまったけれど、俺は知っている。俺がキッチンに立っている間、慧君が見ているのはテレビなんかじゃないってことを。バレていないと思って、こちらを凝視していることを。  でも慧君は知らない。  その視線だけで俺が嬉しくなるってこと。カウンターキッチンで見えない裏で、手元が少しだけ緊張してるってこと。  元々好きだった料理が、慧君というパートナーができてより好きになったこと。  誰といても変われなかった自分が、慧君と一緒にいると簡単に変わっていく。情けなくなり、子供っぽくなり、見栄っ張りになり、弱くなって、そして強くなる。  慧君のおかげと、慧君の所為。 「やっばぁ……慧君が可愛すぎて心臓が痛い」  可愛さも度を超すと毒になる。うちのウサギちゃんは今日も愛らしくて、この後の2人きりの時間を思うと、自然と頬が緩む自分を律するのに必死だ。

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