109 / 128

31

「つまり……つまり、の続きは」  今、この瞬間。俺の頭の中では2人の自分が言い争っていた。一方は全てを正直に話し、何も不安になることはないと諭せと訴える自分。そしてもう片方は、どうにか上手く言ってはぐらかし、何事もなかったように振る舞えと唆す自分。  どちらにもメリットとデメリットがあり、それは五分五分の戦いをくり広げる。慧君の鋭い視線を浴びながら、2人の自分が攻めては守り、守っては攻める。  けれど、その勝敗は意外と早くついた。勝ったのは前者だった。理由は単純明快で、目の前にいる彼に嘘をつきたくなかったから。嘘をついて場をやり過ごすことは容易でも、それをした自分を許すことは難しい。  その上、今回は相手が悪い。こちらに気は無いとはいえ、仮にも上司の娘だ。いつ、どこであのハゲが口を滑らせるかは分からず、それが慧君の耳に入るかも分からない。  どうせ知ってしまうのならば、不純物を取り除いた真実だけでいい。人づてに流れる噂なんてものは基本、余計な揶揄を纏ってしまうのだから。 「ごめん。きちんと報告しようとは思っていたんだけど、後手になった」  なんてことない風を装いながらも、内心はかなり焦っていた。それでも表情には出さないよう微笑み、けれど打つ胸のリズムは早い。あまりの静寂にそれが伝わりそうで、肩にかけていたタオルを胸に抱え直してみる。  これだけは断言できる。  ここで説得を失敗したら、俺に夏休みはやってこない。訪れるのは地獄のような孤独の日々だ。 「実はね、慧君。その女のひと──」 「これ、誰」  遮るように被せられた言葉。先と同じく、抑揚のない声で慧が訊ねてくる。 「あ、ああ……その人は教頭の娘で、でも」 「ハゲの?ってか、この人って何歳?」 「え?さあ。そこまではまだ」 「まだってなに?まだ年を聞くまでの仲じゃないってこと?じゃあなになら聞いたわけ?」 「は?いや、何ならって俺は何も──」 「それともリカちゃんは相手が何歳でも気にならないのか?そりゃそうだよな、自分の生徒に手を出すぐらいだから別に平気か」  抑揚がないだなんて嘘だった。珍しく淡々としていると思ったのは勘違いで、あまりの怒りに声が固まっていただけだった。  キャンキャン喚く怒り方が慧君の常だと思っていたけれど、怒りが度を越すと一旦は落ち着くらしい。  でもそれは一過性のもので、少しすると慧君の様子が変わったことに気づく。例えるなら青かった炎が真っ赤に燃え盛るような感じだ。   「マジで最っ悪。最悪すぎて、クソほど笑えてくるんだけど」  そう言いつつも慧はクスリともせず、見合い写真を持った手が小刻みに震えている。全身から放たれた怒気が、鮮やかな朱色となって見えるんじゃないかと錯覚するぐらいには、怒りが露になってきた。 「慧君。ちょっと落ち着いて。ひとまず俺の話を」 「だいたい!!俺は、前からずっとリカちゃんは怪しいと思ってた!」 「………………は?」  いきなり何だと、対応に困る。その一瞬の隙を慧は見逃すことなく、持っていた写真を床へと叩きつけた。衝撃で偶然開いた表紙の向こうで、教頭に似た女が微笑んでいる。  ──ああ、なんて地獄絵図だろう。  大に大を重ね、大を掛け合わせても足りないぐらいに大好きな恋人を怒らせ、微塵も興味のない女に微笑まれている状況。恨むのは自分か、それとも諦めの悪いハゲた教頭か。  そんなどうでもいいことを考える俺の正面で、慧君の怒りはさらに爆発する。 「ってか!前に女には困ってないとか言ってたしな!リカちゃんと歩いてたら、すっげぇ見られるし!でも、そんなの慣れてるのバレバレだし!それに、すぐくっついてくるし、簡単に好きだとか可愛いだとか言うし!!あとは……あとは!性欲強すぎでエッチの回数だってやたらと多いし!!」 「慧君、お願いだから落ち着いて」  言われた言葉の前半は身に覚えがあるような、ないようなこと。後半に関して言えば、慧限定でのことだ。それなのに慧の怒りは収まらず、爆発を続ける。  無関係なことまで巻き込んで燃え広がる炎の勢いは、それはもう凄まじい。 「慧君、お願いだから落ち着いて」  こうなった慧を止めるのはもう不可能で、俺が1歩踏み出せば同じ分だけ慧は退る。鋭く尖った視線が容赦なく突き刺さる中、こちらの言葉はもう届かない。 「うるさい!俺に命令すんな裏切り者!」  ほら、こんな風に。  

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!