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第56話
*
「おかえり」
ドアの前に立っていた男が俺に声をかけた。キャメル色のコートを着て、ポケットに手を突っ込んだ姿は、桃らしくない。
一瞬で怒っているのがわかって、その理由も想像がついた。
怒られて当然のことをしているのだから、俺に言い訳の余地はない。
「アイツは?」
桃の顔を見ずに問いかけると、少し尖った声で返事が返ってくる。
「泣き疲れて寝たわ。だいぶ追い詰められて可哀想に」
その言葉に胸がグッと締め付けられる。
本当は泣かせたくなんてない。ウサギには俺とあいつの分も、笑っていてほしいのに。
傷つけたくない、なんてよく言えたものだと思う。
また俺は1番傷つけてはいけない彼を泣かせてしまった。今度は自分の手で直接ウサギを泣かせて、突き放してしまった。
器用にできなくて、自分を抑えきれなかったなんて言い訳でしかない。
黙って瞼を伏せると、桃が立ち塞がるように玄関扉を蹴る。
乾いた冬の空気に似つかわしくない鈍い音がこだました。
「リカ、話があんだけど」
トレードマークのオカマ口調が消え、敵意を露わに桃が睨んでくる。
「………入れよ」
玄関を開けると、荒々しく靴を脱ぎ廊下を進んでいく。散らかったリビングを見た桃が、まだ部屋に入れずにいる俺を振り返った。
「…綺麗好きのリカにしては悲惨だな」
「うるさい」
「弱いのにヤケ酒なんてして馬鹿らしい」
テーブルの上に放置していた大量の空缶を見つめ、呆れたように言う。それを押しのけ、桃は持っていた鞄を机上に叩きつけた。廊下にいる俺を手招きし、刺々しく言い放つ。
「リカさ、お前何がしたいの?」
その問いには……答えられない。
あの日から。慧の誕生日から俺は何をして過ごしてきたのか、よく覚えていないからだ。
朝起きて、なんともいえない虚無感にかられる。
隣で気持ちよさそうに眠るウサギがいなくて物足りなさを感じ、。ただソファに座って時間になったら家を出て学校へ向かう。
現れない空いた席に胸を痛めながらも教師を演じて、笑顔をはりつける。
『おはよう』『行ってきます』『ただいま』『おやすみ』
たった1週間で当たり前になったウサギとの時間が、何気ない会話が恋しくて、無意識に空けてしまう隣に何度自嘲したかなんて数え切れない。
その度に酒を煽りタバコに火を点け自分をごまかした。そうでもしないと止められなかった。少しでも気を抜けば俺はウサギの元へ行ってしまう。
また「先生」だからと嘘の理由をつけて接点を持とうとしてしまう。
本当は自分が傍に居たいだけなのに、自分自身を許す為の嘘をつく。
それが自分で自分の首を絞めていることなどわかっていた。
いつか終わりが来るとわかっていても、一瞬でいいから慧が欲しかった。
そんな稚拙で愚かな自分に呆れて何も答えられないでいると、桃の苛立った声が続きを催促する。
「何がしたかったのかって聞いてるんだけど」
鋭い声は容赦なく突き刺さる。
「あれだけ甘やかして特別扱いして……何も知らない子に手まで出して。1人が嫌いなあの子がお前を好きになるのは当然だろ。それを生徒にしか見れない?笑わせんなよ。そんなあからさまな嘘で納得すると思ってんのか?」
「……そうだな。何がしたいんだろうな、俺」
投げやりな俺に桃は怒りを露わに問い詰める。
「俺には資格が無いって何?そもそも資格ってなんだよ」
「無いだろ。お前、俺が何をしたのか忘れたのか?」
桃の顔が一瞬翳る。
その話は俺たちにとって触れてはいけない。誰も口にしない暗黙の了解がそこにはある。
チッと舌を打ち、桃が自分の親指の爪を噛んだ。
「それならどうして近づいた?お前がウサギちゃんの気持ちに気づかなかったわけがない。どうして気づいた時にやめなかった?」
どうして?
そんなの……そんなの考えなくても答えは一瞬で出てくる。
「嬉しかったから」
ほら、簡単だ。
「俺があいつに好きだって言われた時、どんなに嬉しかったかお前にはわかんないだろうな」
桃は何もわかっていない。それがどれほど残酷で、俺がそれをどんなに望んでいるのか。
「教師だとか生徒だとか、そんなのどうだっていい。嘘でも何でもいいから、慧を突き放す理由が欲しかった」
慧と星一、その関係は兄を心から慕う弟と弟を誰よりも、自分よりも優先した兄。
それを壊したのは、紛れもなく自分だ。
母親を失い、父親には相手にしてもらえず……唯一の心の拠り所であった兄を奪った罪は重い。
それなのに俺はまた間違いを犯してしまった。
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