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陽太の涙②
カツカツという音で目覚めた。
と、同時にドクンドクンと痛烈な痛みが陽太を襲う。
「ううう…」
眼を開けて朧ろに見えたのはグレーの床。
ところどころ汚れて、欠けている。
ここはどこだろうか?
瞬きをすれば、焦点が合ってきた。
その床を苛立ただしげに歩いてくる女。
エナメルのピンク色の靴。
まぶたを伏せれば、あの頃のことが走馬灯のように蘇ってくる。
似たような靴を美和が履いて来て玄関に揃えてあった。
眼をあければ、陽太の顔を覗き込む顔に思わず
「ひっ!」
と、声が出た。
覗き込んだ美和の顔が一瞬、歪むと、同時に肩にピンクのヒールの先が食い込んだ。
「いああー!」
自分の口から出た叫び声。
痛くて両目から涙が流れ出す。
動きたくても動けなかった。
肩にはガムテープが何重にも巻かれ、両手首、両足首が、同じガムテープで背中で拘束されていた
「ようやく、起きた?」
何年も前に聞いたことのある優しい声色で美和が言った。
だが、覗き込む顔は闇を纏った表情。
「あんたって、本当に疫病神ね」
美和がヒールの先で陽太の肩を突く。
その度に肩に激痛が走る。
「み、美和ちゃ…」
「けがわらしい…名前を呼ぶな!」
思いっきり蹴られて、呻き声とともに転がる陽太。
「あんた、奏多に抱かれてるんだって?あんたのせい?奏多が男に走ったのは?」
「うううう…」
そうかも知れないと、半ば意識を飛ばしながら陽太は思う。陽太さえいなければ美和は奏多と結ばれたのではないか…
現在は憎々しい表情の美和だが、最初の頃、美和は本当に優しく接してくれた。
かなたん…。
陽太の意識はそこでまた、途切れた。
「姐さん、こいつどうするんです?兄貴も捕まったのに」
強面の男が美和のすぐ側で問いかける。
男の目は血走っている。
「あたしらが逃げ切るためにはこいつが必要なんよ!」
美和が男に向かって怒鳴る。
「姐さん!俺は抜けます!こんな約束じゃなかった!」
部屋の端の方から焦ったような大声がして。
黒の混じった金髪の若い男が部屋から逃げるように飛び出そうとして。
そして、パンという音と、ドサッと倒れる音。
「えっ…」
強面の男が美和の腕を払って、持っていた黒い鉄の塊が落ちた。
「姐さん、何で…」
陽太は瀕死の状態で転がっている。
今しがた美和に撃たれた金髪の男はちっとも動かない。そして、身体の周りの血だまりが徐々に大きくなっていく。
もう一人いた細身の男はこの雑居ビルに着いて、車から降りた時に逃げた。
そう、この部屋で動けるのは美和と強面の男だけ。
「逃げようとしたから!」
美和はパニックになっている。
強面の男はその美和を見ながら妙に冷静になっていた。
そして今までのことを脳内で再生していた。
兄貴についてこの地まで来た。それに後悔はない。
兄貴を含めた阿須賀組の面々が、根こそぎ警察に捕まったと聞いたときには愕然とした。
美和に惚れている兄貴に頼まれたから、昨日兄貴に付かずに美和を手伝った。
自分が付いていたら兄貴だけでも逃がせたかもしれないのに。
美和と付き合いだしてから兄貴はおかしくなった。噂でしか知らない人龍会若頭の高梨奏多にライバル心を持ち。そのせいで組の若頭と揉め事を起こしと破門なった。もしかしたら、また戻ることも出来たかもしれないのに、兄貴は阿須賀組を頼って人龍会の本拠地であるこの地に足を踏み入れた。
その上、美和の私怨を晴らすためだけに陽太を攫った。あのショッピングモールで会ったのは偶然だったのか、必然だったのか…
人龍会若頭の情人である陽太。
一人になった陽太を攫うチャンスがきて決行すれば、陽太が二人いて、戸惑ったが運良く本物をさらう事ができた。
今思えば運が良かったのか悪かったのか。逃げる途中に兄貴がサツに捕まったと連絡が入って、本来の目的地ではないこのビルに隠れている。連絡をくれ、隠れ家を教えてくれた若衆も連絡がつかなくなった。阿須賀組も壊滅状態の今、助けが来ることはないだろう
どれほど一緒にいなかった事を後悔しても、兄貴は当分シャバには戻れない。
座り込んだ美和を見下ろす。
兄貴は人龍会若頭に未練タラタラの美和のどこが良かったのか。今持って不思議だ。恋は盲目とはこのことか。
髪の毛を掻き毟る美和。
あぁ、こいつはもう無理だな。
兄貴がいない今、俺がここにいる意味はあるのだろうか?
無いな…。
強面の男の手が美和の襟首を絞めた。
意図も簡単に気絶する奴。
美和の鞄をもって雑居ビルを飛び出した。走りながら美和のスマホで電話をした。
スマホのアドレスに若頭の名前があるのは知っていた。ショッピングモールで陽太と出くわした後、美和が昔のことを自慢げに話していたときに口走っていた。若頭のスマホには繋がらないが、フロント企業には繋がった。
留守番電話に
「北区の雑居ビル。前の通りに赤い屋根のパン屋」
それだけを言って電話を切った。金だけを抜き鞄をドブに捨てた。
逃げ切れるか…。
タクシーを呼び止め、飛び乗った。
雨が足跡を消してくれないだろうか。
夜が明ける。
玄二の乗る車が陽太がいるビルへ着いたのはそれから20分後。
ビルに入れば、血のりの靴跡が部屋を教えてくれる。若衆を押し退けて、玄二が物音一つしない部屋の扉を蹴り倒せば、簡単に扉は開いた。
すぐに血溜まりがあり見るからに息絶えてる若い男。
部屋の中央あたり。
古ぼけたソファの近くにガムテープでぐるぐる巻きにされて転がされいる陽太がいた。
数歩離れて美和が倒れている。
玄二が陽太の元へ走り、その後を外科医の伸也が追いかける。
新田と田村が素早く指示を出した五分後、部屋の中にひと気は無く、血溜まりだけが異様さを放っていた。
ドタバタとする音が聞こえる。
「陽太さん!」
玄二くん?
玄二くんが来てくれたの?
もう大丈夫だから、と、頭を撫でる大きな掌。
ポタポタと、顔に落ちてくる雫。
雨がふってるの?
瞳を無理矢理に開ければ玄二の顔があった。
あれ?玄二くん、泣いてるのかなぁ?
「寝てていいですよ」
と、声がした。
「ん…かなたん…」
「頭のところに戻りましょうね」
「うん。帰る…」
陽太のつむった瞼から一雫涙が流れ落ちた。
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