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奏多の兔走烏飛、そして。

奏多に父親はいない、産まれたときから母親と二人だった。 父親は母親と結婚する前に死んだと聞かされた。 母親は市民病院の看護師だったので、給料もよく母子家庭ではあったが、それなりの生活をさせてくれた。 ハキハキとした、男勝りの女性だった。 その母親が呆気なく逝ったのは奏多が大学1年の秋。 そう、陽太の父親と同じ秋桜の咲く秋の日だった。 その日、母親は日勤で19時には家に着いていたはず。 奏多が玄関をあけたのが、二時間後の21時。 母親はソファーで冷たくなっていた。まるで眠っているように。 「母さん…。」 心臓の病だった。 母親の職場の人間と近所の人が大半を占める葬式会場で奏多は初めて父親の関係者と会った。 「あんた、誰?」 そう口にした途端、その男の後ろに控えてい た厳つい男が睨んできた。 「お前の両親の知り合い」 男はそう言いながら左手を少し上げて後ろを牽制した。 「両親?」 「お前が独りになったら助けてやってくれと頼まれてた」 「助けなんて……」 いらないと最後まで言う前に 「元々はお前の父親と親しかったんだ」 「父親…」 手帳に挟まれた一枚の写真を母親はたまにこそっと取り出して眺めていた。 小学生高学年の頃、母親の夜勤の日、タンスの抽斗から手帳を取り出してしみじみと見た、男が数人と若い母親が写っていた写真。 それから数年後。 「ただいま」声をかけても夜勤明けでいるはずの母親の「お帰り」が聞こえない。 和室兼寝室のタンスの前に座り込む母親を見つけた。 そっと忍足で側まで行って 「どの人が親父?」 と、半分冗談半分本気で、高校生の奏多が訊ねたら、ビクンと肩を揺らした母親は、苦笑いで奏多の頭を叩いた。 その写真に写っていた男……。 名前すら知らない父親の知り合い。 それが稲郷重治との初めて出会いだった。 稲郷と奏多の父親は幼馴染で五分と五分の兄弟分。澤本組系人龍会組長の跡目であった稲郷のよき相談相手、話相手、遊び相手であった。 看護学生だった母親と父親が知り合ったのは母親が実習で行った病院。 父親は敵対する組の下衆に腹を刺されて入院していた。 極道と看護学生の道ならぬ恋。母親の方がイケイケで、父親はタジタジだったとか。 父親は最後まで迷っていた、悩んでいた。まだ、20才の前途ある看護学生。どこを間違えて、極道の自分と付き合うのか。 そして。 今ならまだ間に合うと別れを決意したその日。父親は今度は胸を撃たれて死んだ。殺ったのは以前と同じ組の下衆だったらしい。父親はガタイがよく稲郷重治のボディーガードを兼ねていた。 実際のところ、跡目であった稲郷重治を狙ったのか、父親を狙ったのか、わからずじまい。何故なら稲郷が切れて鬼神の如く暴れ回り、口を割らせる前にその組を壊滅させ、殺っちまったから。 その後、母親は妊娠を知った。母親は泣いて喜び奏多を産んだ。父親はいなかったけれど、母親に慈しみ愛されて育った奏多は幸せだった。だから、母親が話さない父親のことをしつこく訊くつもりもなかった。 母親が居なくなって、初めて父親のことを知り、父親のことを話す稲郷の目は潤んでいた。 奏多は父親の生き写しだったらしい。 当時奏多は経営学を学んでおり、大学院に進んでMBAを取得するつもりだった。 折しも暴力団対策法が施行され、極道である人龍会も舵を切ることを求められていた。 人龍会組長であった稲郷から、行く行くは組を助けれくれと、頭を下げられた。 人龍会のフロント企業を任せてもらえる。自分の学んできたことを試すことができるのは若い奏多にとっても魅力的な誘いであった。 時々、稲郷の指示を受けてか、稲郷の側近がやってきた。初めて稲郷と対面した日に睨んできた男で山際謙也、陽太の父親であった。 男が男に惚れる。 実際にあるものなんだと実感させられた相手だった。寡黙な人ではあったが、何故か稲郷よりも父親を彷彿させる人物で。大学生の頃から、良く家に呼んでもらい妊娠中の姐さんの手料理を食べさせてもらった。 この人を兄貴と呼びたいと思った。 そして、陽太が生まれ、姐さんが命を落とした。 その後、希望通りに院を卒業しMBAを取得した奏多は会社を任された。 天賦の才能があったのか、奏多は任されたフロント企業で莫大な利益を上げた、それも至極真っ当な方法で。 同時に兄貴を支えたい、と思った。 人龍会組員になるのは必然で。兄貴は呆れて怒って反対したが。 けれど奏多は住んでいたマンションを引き払い、人龍会本部の部屋に移り住んだ。 稲郷にフロント企業の辞表を出して無理矢理に受け取らせた。 が、奏多が抜けたフロント企業はあれよあれよと言う間に取引に失敗して。 組の軍資金が失くなっていくのを放っておくわけにもいかず、結局は部屋からスーツを着てフロント企業である会社に通うという中途半端な、ていをとった。 後に、出来る人間をヘッドハンティングして社長を任せて、自分は組事務所の隣にビルを建て、コンサルティング会社の社長におさまることになる。 そして、兄貴が凶弾に倒れた……。 数年の間に三人の大切な人を見送った。 自分が極道になったことに後悔はない。だが、奏多の父親も陽太の父親も敵対組織の刃にかかった。 この連鎖を打ち切りたいと心底おもった。 陽太には真っ当な人生を歩んでほしかった。 奏多が引き取らず、施設に入れて金の援助だけしていればよかった。 だが、あの時奏多の指を握る小さな手を離すことがどうしても出来なかった。 18才まで猶予をもらったのにまた離れていく手を掴んでしまった。 結局のところ奏多は陽太の手を離すことはできない。自分の気持ちを優先してしまうのだ。 陽太。 陽太は完全に奏多を忘れたわけではない。 そして、12才の陽太はまだ奏多への恋心に気づいていない。 ならば。 少しずつ成長できるように奏多が慈しみ愛して育てていく、今度こそ父親代わりとして。 自分が母親からしてもらったように。 たとえ、陽太が恋人としての奏多を思い出す事がなかったとしても。 夏の青空はいつの間にか、燃えるような夕焼け。陽太が観たら、歓声をあげるのは間違いないだろう、オレンジのグランデーション。 奏多は椅子に座り、陽が沈むまで眺めた。

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