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旅立ち①

好きにしろと言った奏多は陽太に冷たい眼を向けて、自室に入って行った。 玄二が氷嚢を頬に当ててくれる。 「ごめんね、玄二くん」 玄二は首を横に振り何も言わなかった。 一時間ほどリビングのソファーで丸まっていたが、結局玄二に即されて自分の部屋へ。 腫れた頬に冷えピタを貼られて子供みたいだと情けなくなった。 ベッドに横になったところで眠れる訳もなく。 奏多に叩かれたのは初めて。今迄本当に手をあげられた事はなかった。 それだけに奏多が怒り心頭を発したのが、よくわかる。 「かなたん…」 ハラハラと涙が溢れる。 奏多の前では泣かずにすんだ。絶対に奏多の前では泣かないと決めたのだから。 かなたん かなたん かなたん…。 大好きだよ。大好きだよ。 ごめんね ごめんね ごめんね。 泣いて泣いて泣いて。 気づいたら、玄二が側にいて。 乾いた冷えピタを貼り替えてくれた。 「玄…二く…」 思わず抱きついて泣いた。 玄二は何も言わず背中を摩ってくれる。 リビングで話し声がして眼が覚めた。いつの間にか、横になって眠っていたようだ。早朝六時、奏多は何故こんな早くから出かけようとしているの? 躊躇したが、陽太は起き上がり玄関へ向かった。 奏多が靴を履いていて。 靴ベラを受け取った玄二が 「行ってらっしゃいまし」 と、頭を下げていた。 「かなたん!」 「行ってくる」 陽太を振り向くこともなく奏多は出て行った。 いってらっしゃい…。 呟くようにしか、言えなかった。 冷たい態度は勿論予想していたこと。 諸手を挙げての賛成などある訳ないと分かっていたのに、いざ、そう言う態度を取られると心が刺されたように痛む。 どこまでも考えの甘い自分。 でも自分で決めたことだから、耐えるしかないのだ。 奏多の出て行った玄関ドアを唇を噛み締めて見つめた。 「陽太さん、おはようございます」 玄二の優しい笑顔。 「おはよう、玄二くん」 「早いですけど、朝ごはんにしましょうか?」 言われるままに、ぼんやりダイニングの椅子に座っていたら、テーブルに陽太の好きなおかずばかり並ぶ。気を遣ってくれているのが分かる。 「いただきます」 食欲など全くないけれど、それを気取られないように口に運んだ。 玄二は何も訊いてこない。陽太の意志を尊重してくれているのか、あるいは奏多に何か言い含まれているのか。 「今日は九時から佐伯さんと会う約束ですよね?行けそうですか?」 「うん。大丈夫だよ」 「わかりました」 「それまで、シャワーを浴びて英会話の勉強してくる」 「はい」 陽太は佐伯に手伝ってもらいながら、ビザをを取得し、住む所を決めた。 5月には通う大学も決定する。 物理的に離れないと初志貫徹できないと、アメリカにした。 亡き父の遺産をかなり使った。もう後戻りできない。 予定通り佐伯に会いに玄二と出かけた。 「玄二くん、かなたんに何か言われた?」 黒塗りの車の後部座席から助手席に座る玄二に問いかけた。 玄二は、後ろを振り向き柔らかく微笑んだ。 あぁ、言われたんだね。 「ごめんね」 「謝らなくていいですよ。俺もいったん離れるのは、お二人にとって必要なことだと思いますから」 「玄二くん…ありがとう」 「まぁ、アメリカまで行くとは思いませんでしたが」 「だって、日本だったら絶対僕甘えが出るもの。アメリカならそうそう帰れないと思ったんだもん」 「陽太さんのいない間、組長は任してください」 「玄二くん…。僕ね、僕が離れている間に、かなたんが恋人や奥さんを作ってもいいと思ってる。イヤだよイヤだけど、僕は…」 それ以上は言えず、車窓の流れる風景に目を向けた。 「陽太さん、分かってます。分かってますから…」 玄二もまたそれ以上は言葉にしなかった。 奏多と面と向かって話をしないまま日々は過ぎていく。全く顔を合わせないわけでは、ないけれど。 朝の挨拶や天気の話はする。当たり障りのない会話だけ。 アメリカへ行く準備は整い、もう出発の日を待つばかりだ。 人の感情とは厄介なものだなとしみじみ思う。 奏多は何も言ってこない。無言は容認と取るしかない。でも、どこかでもっと反対してほしい自分がいる。 何故、もっと何かいってくれないのか? 自分勝手とわかっているけれど……。 かなたん…。 「玄二くん、今日もかなたんは帰ってこないのかな?」 「はい、キタで澤本組の本部長とお会いしてますので、多分」 出発まで、一週間を切った頃、とうとう奏多は帰って来なくなった。 上部組織の澤本組で奏多は若頭補佐に任命されたと玄二から聞いた。 ますます忙しくなり、事務所の近くにある北のマンションに寝泊まりしているらしい。 「北のマンションって、確かお初天神の近くだったよね?」 「はい、そうですが…」 「行ってみようかな?」 「………。用があるなら組長に連絡取りましょうか?」 「ん。行って待ってるよ、送ってくれる?」 「今からですか?」 外は煌びやかなネオンが灯っている。 玄二は夜間に陽太を外に出したくないのだろう。 「うん、タクシーでもいいけど、ダメでしょ?」 美和に拉致されてから、必ず陽太には護衛がつく。杏果の関わった拉致未遂から徹底されている。 「お願いだから、かなたんには内緒にして」 「ですが…」 「連絡すると、会ってくれない。お願いします」 頭を下げる陽太に玄二は、困った表情をした。 しばらくして 「わかりました。ただし、俺も北のマンションに足を踏み入れたことはありません。ですから、どういう状況かもわかりません。それでも大丈夫ですか?」 と、玄二は意を決したように言った。 北のマンションは思った以上に近かった。 これなら、陽太のいるマンションに戻って来れるのに…。 陽太と顔を合わせたくないから、帰ってこない。 そんな現実を突きつけられて、引き返したくなってくる。 「近いね、歩いて来れるぐらい」 「そうですね…」 北のマンションのエントランスで、厳つい顔をした若い男が挙動不審者の如くうろうろしている。 何やってんだアイツ。 玄二が呟いて、陽太は笑いそうになった。 車を降りてエントランスへ向かった。 「すまねぇな、良輔」 「いいえ!」 男は陽太と玄二に直角に頭を下げた。 「お待ちしてました!」 「こいつは良輔と言って北のマンションの掃除やら買い物やらを担当しています」 「そう、いつも奏多がお世話になります。陽太と言います」 ペコリと頭をさげたら、良輔は真っ赤になった。 「とんでもございません!」 これです!と、良輔が両手で差し出してきたのはカードキーだった。 玄二はこの為に良輔に連絡をいれたのだろう。 陽太が受け取ると頭を下げ、 「では、失礼します!」 と、踵をかえそうとする。 一刻も早くこの場を立ち去りたいのか? 「奏多は帰ってるの?」 ギクリとする良輔。 「いぇ、まだ…」 「帰ってくるって、連絡あった?」 「はい、いぇ…あの…」 しどろもどろになる良輔。 わかりやすい。 非常にわかりやすい人だな。 「やはり、帰りましょう陽太さん」 玄二も何か感じる所があったのか、強い口調で陽太の腕をとった。 「帰らないよ。玄二くんは、帰って」 玄二の腕を振り解きカードキーをサッと翳して中へ入った。 玄二が後を追いかけてくる。 「玄二、お前は来なくていい!」 陽太の強い言葉に玄二が背後で立ち止まるのがわかった。 「来るな!」 後ろを見ずにもう一度言った。 一人でエレベーターに乗り再度カードを翳した。 奏多の部屋は最上階ということは知っていた。以前、ここに愛人を囲っていたことも。 当時はその人を杏果と勘違いしていた。 奏多には何人もの愛人がいた。中学生の頃会った人も、翼もそうだ。 今だってきっと。 玄関はすんなりと開いた。たたきには靴が二足。奏多の靴と…, 心臓が早鐘を打つ。 艶かしい音がする部屋に足を進めた。 ドアを開けて。 ソファに座る奏多。その脚の間に跪く女の背中。 顔を上げてこちらを見る奏多と目があった。

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