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お題『お迎え』(優一郎×慈雨)

 優一郎はレッスン室の重いドアを外から開けられて初めて時間の経過に気づき手を止めた。「ごめん、今出る」と譜面台の上に広げていた楽譜をかき集めると、グランドピアノの前から離れた。  廊下に出ると振り返り、壁に貼られた予約リストから青木優一郎の名を線で消す。  中途半端に大きな楽譜をメッセンジャーバッグに押し込み背負うと、校舎を出て幼稚園の園舎に向けてキャンパスを横切った。  雨上がりのキャンパスはどこもかしこもキラキラと輝いて、優一郎はプールの水面を切り取ったようなセルフレームの眼鏡の奥の眼を細め、大きく手を振り大股で芝の上をざくざく歩く。園舎の門に暗証番号を入力して解除し、園舎のドアの前でインターフォンを鳴らす。 「優一郎です。慈雨のお迎えに来ました」 カメラにさっぱりと整った顔を突き出した。 「だーめ。フルネームで名乗ってください」 副園長の声に押し返されて、優一郎は唇を尖らせる。 「十年生の青木優一郎です。風組の小林慈雨くんのお迎えに来ました」 「はい、どうぞ」 オートロックが解除されて、優一郎が園舎に足を踏み入れると、慈雨がキルティング生地のレッスンバッグを手に天然パーマの黒髪をふわふわさせて、優一郎の前にやってきた。  ボロシャツの裾でバックルを覆った腰に、ぴと、と抱きつかれるのを受け止めると、腹に慈雨が顔を擦り付けている、その後ろ頭を撫でて肯定の意志を伝えてやりながら、預かり保育での様子を聞く。 「今日は折り紙で金メダルをつくりました。慈雨くんが作ったのは、優ちゃんにあげるって。ね?」 ね? と入職一年目の先生に顔をのぞき込まれると、慈雨は顔を真っ赤にして、腹に額を押し付けたまま小さく頷く。 「慈雨くんが作ったメダルは、どこにあるかな? 優ちゃんにどうぞってしようよ」 慈雨は相変わらず優一郎の腹に顔を擦り付けたまま、キルティングでできたレッスンバッグを突き出す。 「この中に入っているのか?」 優一郎の質問にも、顔を見せずに頷くだけで、優一郎は玄関に屈んで、勝手にレッスンバッグを開けてみる。 「どれをもらっていい?」 金メダルのほかに、銀メダルと、青メダルがあった。  慈雨は顔を怒ったように赤くしたまま、レッスンバッグに手を突っ込んで、金メダルを取り出すと、屈んでいる優一郎の頭から首にかけてくれる。 「すごいな。金メダルをくれるのか?」  慈雨は首を横に振って、銀メダルも取り出して優一郎の頭に引っ掛けた。リボンが優一郎の短く硬い髪とプールの水面を切り取ったような青いセルフレームのメガネに引っかかってもがく間に、慈雨は顔を逸らし、さらにレッスンバッグに手を突っ込んで、青いメダルも追い打ちをかけるように髪の毛にかぶせて、慈雨はレッスンバッグを持つと優一郎を待たずに 「ごきげんよう」 と、ドアに手を掛けて出て行こうとする。 「ちょっと待て、慈雨!」 髪やメガネに絡まるメダルを先生に手伝ってもらいながら首に落とし込んで、あとを追った。  慈雨は、小さな足を前に前に突き出して、精一杯の早足で歩いていく。 「待てって、慈雨!」  優一郎が大股で追えば、ほんの数歩で追いつき、肩に手を掛けたらふり払われた。 「や!」 慈雨の声は怒っていた。 「なんでだよ? 待てったら!」 「やなのっ!」 回り込んで慈雨の前に屈んだら、慈雨は大きな目に涙を溜めていた。 「おいおい、どうしたあ?」 「なんでもないっ!」 横をすり抜けて行こうとする慈雨の腕を捕まえた。  夏至が近い空はまだ明るい珊瑚色で、慈雨の頬を伝う涙をはっきりと確認できた。 「ちょっと待った。なんでもなくないだろう? お前が泣いているのに、俺がそのまま、お前を帰すと思うなよ」 掴んだ手の中で、慈雨の腕が力いっぱい抵抗して振りほどこうとするのを、優一郎は許さず、釣り上げた魚が消耗するのを待つのと同じ要領で根気よく慈雨を待った。 「幼稚園の中じゃ、いやなの。先生のおしゃべりっ!」  意味が分からない。でも、慈雨はレッスンバッグから手を離してごしごしと目を擦って泣きだし、優一郎が手を緩めると腕を振りほどいて両手で顔を覆って本格的に泣き出した。 「お、おいおい。慈雨? どうした?」  慈雨に泣かれるのは、弱い。  どうしてやったらいいのか、経験値が足りなすぎる。  しゃくりあげて震える小さな肩に自分の無力さや至らなさを感じながら、ただ背中をさすってやるしか、方法がわからなかった。  慈雨が優一郎の方へ向き直り、近寄ってきたのを逃さずに抱いた。 「いやだったのっ」 「そうか。いやだったのか」 とりあえず、慈雨がいやだったということは、わかった。  すると慈雨はうなずいて、言葉をつづけた。 「メダルはね、オレからどうぞってしたかったの。二人っきりのときに、どうぞってしたかったの」 「二人っきりのときに……」  優一郎は急いで自分の首から全部のメダルを外した。 「悪かった。デリカシーがなくて、申し訳ない。今からでもよければ、あらためてプレゼントしてくれないか」  腕の中の慈雨にそっとメダルを差し出すと、慈雨は泣きぬれた顔でうんと頷いてくれた。  優一郎の手から一本ずつメダルを取っては、 「金メダル、どうぞ」 「銀メダル、どうぞ」 「優ちゃんの好きな青のメダルも、どうぞ」 「ありがとう、ありがとう、ありがとう。どのメダルも全部嬉しい」  優一郎はそっと慈雨を抱き寄せようと背中に手を当てたのに、慈雨は完全に抱きつく前に動きを止めた。  ぴちょ、と頬に触れる感覚があって、一瞬、優一郎の時間が止まった。  肩に不安そうな慈雨の震えを感じ、優一郎も真っ赤な慈雨の頬に自分の唇を押し付けて、口の中で小さくキスの音を立てた。 「ひゃあ」 「さあ、お前に家に帰るぞ。ピアノは練習したか?」 片手で抱き上げるだけで、慈雨のほうが小猿のようにぴょんとしがみついてくる。 「練習したよ」 「本当か? 聞いたらすぐにわかるからな」 「いいよー」 腕の中で慈雨は身体を揺らし、優一郎は慈雨に髪を撫でさせながら、学園前駅の改札に向かって歩いた。

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