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 「りょうすけ」  誰に名前を呼ばれたのだろう、と思った。  学内で俺のことを名前で呼ぶ連中は男も女も幾人かいるが、こんな子どものように(つたな)い呼び方で呼ばれたことはないし、普段聞きなれない声だった。  それもそのはずだ。その声の主は…… 「……尾関、海里?」 「今なんか落としたぞ」  思わずフルネームで呼んでしまった俺を意に介さず、奴はスッと屈みこんで確かに俺のポケットから転がり落ちたのだろうお気に入りの小銭入れを拾いあげると、俺の手のひらに無造作に置いた。 俺はあっけに取られていたが――すぐに我に返った。しかし、混乱していた。 「な、なんでいきなりファーストネームなんだ!?俺、おま……きみと以前に話したことがあったっけ!?」 「ないけど、苗字知らないし。誰かがお前のことをりょうすけって呼んでるのを聞いたから、お前はりょうすけなんだろう」  その時の海里は、顔全体に『何言ってんだこいつ』と書いてあるが如く、平静だった。至極当たり前のような態度で、まともに焦っている俺の方がおかしいんじゃないか?と思いそうになる空気。  海里はいつもそうだ。自分の行動や思考はごく普通だと思っている。 「だからっていきなり人をファーストネームで呼ぶか普通!?……いや、俺は別に怒ってるんじゃない、驚いているだけなんだ、えっと……尾関」 「知るか。俺はお前を呼び止めたかったから名前を呼んだだけだ。じゃあな」 「あ……」  驚きすぎて、小銭入れを拾ってくれた礼を言うのを忘れてしまった。  ――これが、俺と海里の初めての接触(コンタクト)。自分からは絶対に声を掛けたりなんかしないと思っていた俺に、アイツの方から話しかけてきた。それも二度と忘れられないような、強烈な印象(インパクト)を残して。 (……なんか、面白い奴なのかもしれない……) その日から俺は、周りが止めるのも聞かず時々海里に構うようになった。 * 百聞は一見にしかず、とはよく言ったものだ。海里は噂のように性格が悪いわけでもなんでもなくて、ただコミュニケーションが少し苦手な不器用なやつだった。 話し掛けても無視されるというのは、海里に代返を頼んだら断られて、それにムカついた奴が流した根も葉もない噂だった。 海里曰く、『名前も知らない奴の代返なんかできるわけない。呼ばれても気付けないんだから』だそうだ。その通りだな。そいつも海里なんかに頼むのが悪い。 しかしそれ以前に、相手の名前を聞く気もないところが海里らしいと思った。 確かに変人には違いないだろうが、話してみればわりかし素直な性格で、おそろしく頭はいいくせにひどい世間知らずだった。 例えば、こんなことを聞かれたことがある。 「凌介、質問してもいいか」 「なんだ?」 「今大学生の間じゃUMA(ユーマ)になるのが流行ってるのか?正確に言えばなる、じゃなくてなりたい、なんだろうけど。しかし先日、俺はついになったぞ!と自慢げに言ってる奴もいてどうも様子がおかしい」 「はぁ?」 UMAって……未確認生物のことか?に、なりたい奴が増えている?大学生の間で流行ってるのかって?しかもなってるやつもいる……?なるほどわからん。 海里の頭の中はいつも宇宙すぎる――と、俺は会話を諦めようとしたのだが。 「アッシーとか、ネッシーとかいう」 「あー」 アッシー(足)、メッシー(飯)のことか。 一応補足しておくと、それらは女性にとって単なる都合の良い男の通称だ。車で送る、もしくは飯を奢るためだけに呼び出される存在。決して恋人ではない。 好きな女に告白したが振り向いて貰えなくて、それでもいいからなりたいなどと(のたま)う情けない奴らの会話を海里は偶然耳にしたのだろう。それで、どうしてもその意味が分からなかったから俺に質問してきた、と…… はあ、海里。俺はもう既にこの頃からおまえに首ったけだったよ。 それまで俺が信じていたつまらない持論が心底どうでもよくなるくらい、おまえは魅力的で、面白くて、言葉にならないくらい…… 「……やっぱり凌介にも分からないのか」 「ああ、しかし学内にネッシーになった奴がいるなんて由々しき問題だな……これから被害者が出るかもしれん」 「ネッシーは人を食うのか!?」 「なあ海里、そもそも何故ネッシーはネッシーと呼ばれているんだと思う?」 「……ネス湖に棲んでいるから?」 「そう、そこが重要なんだ。しかしここにネス湖はない……というか、スコットランドですらない。つまり、この学内にいるのは」 「……ネッシーではない……?」 「その通りだ」 「何の解決にもなっていないじゃないか!」 俺の結論(?)に海里はぷく、と頬を膨らませた。今どきぶりっ子でもやらないような仕草を何も考えずに平気でやってのける海里は、どんなに着飾った女よりも圧倒的に可愛くて、俺は昼夜問わず海里に夢中だった。 こんな頭の悪い会話も、海里となら楽しくて仕方がなくて寝る暇も惜しいくらいだ。 ちなみに、後に真実を知った海里は3日くらい俺とは口をきいてくれなかった。

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