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俺は何もこの時から海里にそういう――性的な意味で惚れていたわけではない。何せあの雑すぎる容姿だ、一目惚れなどするわけがない……というか、そもそも海里を一目見ただけで恋に落ちたりする奴はいないだろう。いたらそいつは余程の物好きと言える。(何故か俺は海里にそう思われているが)
無意識に惹かれていたのかもしれないが、俺は普通に女性が好きだし、それまで付き合ってきた相手も全員女性だ。大学に入ってからは、付き合いが面倒だという理由で特定の相手は作らなかったが、酒の付き合いやその勢いで何度か恋人ではない女性と一夜を共にすることもあった。
ちなみに、俺から誘ったことは一度も無い。こっちがわざわざ誘わなくても――っと、自慢になるから言わないでおこう。
だからまさか自分が同性の海里を好きになるなんて、この時は欠片も思わなかったのだ。初めに見たときから気になっていたのはまあ、事実ではあるけども。
とにかく、海里をそういうふうに意識したのは、まだずっと後のことなのだ。
*
海里と少しずつ会話をするようになった頃、当然ながら俺は海里のそのズボラすぎる身なりについてツッコんだ。
「なあ尾関、お前もうちょっと身だしなみには気遣った方がいいんじゃないのか」
海里は最初から俺をファーストネームで呼んで現在もそのままだが、さすがに俺は親しくない相手に対していきなりファーストネームで呼ぶのは抵抗があったため、ちゃんと苗字で呼んでいた。海里はそんな俺の葛藤なんか毛ほども気にしていないどころか、考えてもいなかっただろうけど。
「何故?」
「何故って……最低限のマナーだろう」
「服は、着ている」
「最低ラインだそれは!……面倒くさいのは分かるけどな、平穏な日常や円滑な人間関係を保つためには多少の努力も必要だぞ」
「円滑な、人間関係」
海里は、何も考えてなさそうな顔で俺の言葉をぼそっと反復した。
「そうだ。そのだらしない格好が原因で、面倒な輩に絡まれたりする可能性もあるだろう。他の学生や教授への印象も悪い。現におまえ、もう既に無視するだの性格が悪いだのと妙な噂を立てられてるじゃないか」
本人は否定する気もなさそうだけど……俺は続けた。
「就職活動する時期になってもそのままじゃ、大事な場面で絶対にボロが出るぞ。どんなにおまえが自分は優秀な人材だと面接で自己アピールしても、最低限のコミュニケーションやマナーもなっちゃいないような奴を企業は取りたがらないからな。外国に行けば違うかもしれないけど……。とにかく、そのうっとおしい髪を早々に切って、毎朝寝癖を直して大学に来るくらいの努力はした方がいいと俺は思う」
まだあまり親しくもない相手に、きついことを言い過ぎただろうか。
でも、こういうことを直接言ってあげるような奴はまだ俺の他にいなさそうだったので、まぎれもない親切心だった。
しかしさすがに泣きはしないだろうけど、おまえは何様だ、と思われて嫌われる可能性は大いにあった。俺の言葉を親切か暴言か受け止めるのは海里次第で、その選択によって今後の付き合い方を考えよう、とこの時の俺は思っていた。
けど。
「……わかった」
「分かったのか?」
「そこまで想像したことがなかった。今までは制服だったから気付かなかった。不快な思いをさせてしまってすまない」
「いや、俺に謝ることはないけど……」
意外に素直な反応に、俺の方が驚いた。そして海里はふらりと立ち上がると、まだ午後からの講義が残っているのに講堂を出て行こうとした。
「おい、どこに行くんだ?」
「実行は早い方がいいだろう、鋏を持ってきていないから帰って髪を切ってくる」
「は!?自分で切る気か!?」
「要するにうっとおしくなければいいんだろう。それくらいなら自分でできる」
「いやいやいや待て待て待て。……分かった、俺が今日帰りに行きつけの美容室へ連れていってやるから早まるんじゃない」
俺は、単に海里が一人でそういう店に入れないだけかと思っていた。見るからにそういう場所が苦手そうだからだ(得意なら、こんな格好はしていないだろう)でも、違った。
「たかが髪を切るのに金を使いたくない。……あ、じゃあお前が切ってくれないか」
「え、俺が?」
「ああ。俺が自分で切るよりもマシそうだから」
「まあ、それは一理あるな。……でもきちんと講義を受けたあとだぞ、髪を切るのに金をケチっても、講義をサボったら受講料が勿体ないだろう。帰りにお前の部屋に寄ってちゃんと切ってやるから」
「……分かった。……ありがとう」
「うん」
単に、無駄金を使いたくなかっただけらしい。理容費を無駄金だと思ったことのない俺は、このときの海里のケチさが信じられなかったけれど……その理由は後々知ることになる。
とにかく俺は、海里の雛鳥みたいな素直な反応が妙に心地良くて一気に気に入ってしまった。俺の方が一つ年上なせいか、少し手のかかる弟ができたみたいな……いままで後輩にも、こんな感情は抱いたことはないのに。
講義室で海里の姿を見つけたらなんとなく目で追っていただけ、しかもあまり良い感情も持ち合わせていなかったのに、こんな家族に対するような情を抱くなんて不思議だった。けど、全然嫌な気持ちじゃなかった。
こいつと仲良くなったら、毎日退屈せずに充実した大学生活を過ごせるんじゃないか、と――そんな勝手な予感を胸の内に抱いていた。
そしてその予感は間違いじゃなかった、と後々証明されるのだ。
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