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06-03
『透』はずっと島の外に出たくて、家のミカン農家を継げという両親の反対を押し切り、高校卒業後すぐに本土の印刷会社に就職した。船でたった数分の海を隔てただけなのに、土地に馴染めず、他人の過失を押し付けられても何も言い返せず退職に追い込まれる。地元に帰ってみれば両親からは冷たくあしらわれた。そんなに簡単に帰ってこられるほど軽い気持ちだったのかと。
ほとんど開かれていない手塚の台本とは比べものにならないほど、麻生の本はよれよれだ。そこに更にイントネーションの記号を加えたり、付箋を貼っていく。
「『そんなに気に入らんの』ってとこ『に』まで下がって『ん』まで上がって『に』で下がる。最後の『の』はあと半音下げた方がいいな。最初の『ん』にアクセントもうちょい強めに置いて。お前歌得意なんだからわかるよな?」
そこまで詳細に指示を出しておいて「イントネーション云々より感情を抑えてるのが伝わるのはいいからその調子で」と言われても、複雑過ぎて要望に応えられる気がしない。
「先進みましょう…、麻生さん。ディテールは大事ですけど、さっきから全然進んでないから。このシーンだけで一日終わっちゃう」
うーん、とまた麻生が考え込む。
全般的になんでも器用にこなせる手塚は、ジャンルに拘らず全体を見ることから始める。とりあえず全部を把握してから、レベルを引き上げていくのが手塚のやり方だ。ひとつずつ納得しなければ進まない麻生のやり方とは違う。
「俺が言うのもなんですけど、ほんと、間に合わないから。気持ちもわかりますけど」
柔らかくなだめるように手塚が言うと、麻生の眉間のシワはさらに深くなった。
「昼メシどうする?どっか食べにいくか、買ってくるか」
唐突に言われて、午後も一時半を回っていることに気づいた。イントネーションが、感情がとか言いながら、手塚が腹が減っていないか気にしていたのだろう。周囲に気を遣い、じりじりと迷っている部分を見せない分、タイミングを見計らうことが得意でない分、この唐突さを他人から理解されない。最初の手塚に全くわからなかったように。
「俺、近所で買ってきます。リクエストありますか?パンとか米とか」
「手塚が好きなものでなんでもいいよ。食にはこだわらないから」
あれほど旬の魚がどうのと延々語ったくせに、そう言ったのは買い物に手間取らせないためだ。さっさと戻って続きするぞ、という意味だ。
浜辺に面してすぐ横のアスファルトを財布片手に歩いていると、波が呼ぶから、つい斜めにそれる。どれほど麻生が待っていることを知っていても。
波間に向かいながら、どうして自分は面倒なのに麻生の心情をわかろうとしてしまうんだろうと考える。
きっと二人で知らない土地で過ごしているせいだ。それから『透』のことをずっと考えているせいだ。麻生と『透』は違う。でも考えている間に混じり合ってきてしまう。何かに囚われている男の気持ちなど、いちいち汲み取る必要はない。
もう目の前までさぁっと波が寄せている。
ビーチサンダルの砂を波で洗い落としながら、長袖パーカーを着てくるのを忘れたことに気づく。確かに日焼け対策は大事だけれど、麻生に言われたことがいつのまにか習慣化して馴染んでいるのが嫌になり、手塚はちょっと顔をしかめる。
丁寧に粒を落としていたのに面倒臭くなってサンダルを脱ぎ捨てた。ブランド物の財布もぽいと砂浜に投げる。
ざくざく助走をつけて、服のまま波間に飛び込んだ。手の擦り傷に塩がしみるのにも構いもしないで、海水に仰向けに浮かぶ。
自分を知る人はどこにもいない。判断する人もどこにもいない。思えばこの島にいたって人は自由になれるんじゃないか。そう思うと気分がすっとした。
ーー でも、ずーっといたら嫌かもな。退屈で死にそう。
ライブで嵐のように起こる歓声を思い出す。水面下から湧き上がる音が、身体中へ響いてくるような気がする。
直に照らす太陽と、反射光でギラギラと焼かれる。海水に半身を浸しているから気にならないが、紫外線が肌の表面を焦がしながら侵食してくる。水の下なら焼けないんだっけ?水は紫外線通すんだっけ?どちらか思い出せないで、目を閉じたまま、試すように沈んでいく。
気持ちいい…と思った瞬間、勢いよく引き上げられた。
「馬鹿か!溺れてるかと思うだろ!昼は米!早く買ってこい!」
揺れる光と波の音だけだった世界を乱暴に壊して、ばしゃばしゃと麻生は海から出ていった。腰から下まだ海水に浸かっている手塚に財布を投げつけるのも忘れない。
ーー あっぶねーなー落としたらどうすんだよ。
濡れた手で受け止めたせいで財布が濡れも、海水を滴らせながら家に戻る麻生を見て、怒るどころか笑ってしまう。
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