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07-04

 夜露で湿った砂が歩くたびザクザクと音を立てる。反対に砂の上とも思わせない身軽さで動き回る手塚に知らせるように、わざとゆっくりと音を立てて近づく。空はまだ朝焼けのピンク色を残している。海は凪いで、麻生の気持ちとは対照的に静かだ。  手塚は走り込んではジャンプをしたり、足を蹴り上げたり、ターンしたり、朝の光に照らされて解き放たれたかのように伸びやかな動きを見せる。 「毎朝、ここで朝練してたんだ?」 「こっちにいる間に、体なまったら嫌だから」  ゆるやかなストレッチに移行させながら、体の動きは止めずに答える。 「昨日、お前酔っ払ってただろ?」 「麻生さんもでしょ?でも俺、結構酔ってたからあんまり記憶ないんですよね。そっちで寝ちゃったくらいしか。変なことしました?」 「……してない」  抱き合って勃たせてただろとは言えない。その後、どこまで何をやったのか、おかしなことを自分が口走ってないか気になるが、自分から聞くわけにもいかない。  起きた時には服に乱れはなかったし、特別な液体もついていなかったから何事もなかったと信じたい。キスしただけで既に何事もなかったとは言えないのかもしれないけれど。  酔っ払ってふわふわしていたからか、あまりに実態とかけ離れ過ぎていて、飲み会の席で男とキスしたとかいう方向の失態に近い。度合いは行き過ぎているとは思うが。 「パン買ってコーヒー淹れとくから、早めに戻れよ。なんかパンのリクエストある?」 「焼きたてならなんでもいいです。あと、フルーツと生で食べれる野菜もなんでもいいんで買ってきてください」  遠慮のなさにイラっともせず、手塚の態度が変わらないことにほっとした。海にも空にも徐々に明るい光が広がっていく。変わらず寄せては返す静かな波が心を落ち着かせてくれる。 「そーいや、昨日『SF』のライブ見てたでしょ?なんで?」 「見てるとよく眠れるから!」  いきなり昨夜のことに話が戻って必要以上に焦り、素っ気なく答えてしまった。 「そっか」  短い手塚の返事が、残念そうに聞こえたのは気のせいだろうか。 「…ほんとは、お前の声とか表情とか動きの研究だよ。演技に活かせるとこないかなと思って」  この理由は本当だ。嘘ではない。 「麻生さん、ほんと勉強熱心ですよね。期待に応えられるよう俺も精進しまーす」 ーー こいつ、本当は覚えてるんじゃないだろうな…… 『精進する』とは、頑張りますという意味合いで仕事でよく使われるが、身を清め行いを慎むという意味もある。あんな慎みないことしておいて…と思ったけれど、自分もそれ以上に積極的に応えた記憶があるので手塚を責めることはできなかった。 ーー 考えすぎ、考えすぎ。酒の失敗なんて忘れるに限る…とにかく忘れてしまおう…とりあえず忘れよう。いや手塚が忘れているのならなかったことにしよう。  強く心に決める。  手塚は麻生の気持ちを知ってか知らずか、んんっーと気持ちよさそうに手を上げて伸びをしている。そうすると胸元は厚く形良く盛り上がり、白いTシャツが風にはためいて締まった腹が覗いた。  昨日抱き合っていたのが、この体だという気がしない。まだ山で助けてもらった時、無駄のなさに感心した印象の方が強い。性的ニュアンスなしで、目的のために削ぎ落とされた綺麗な体型だなと思った。 「お前が歌って踊ってるとこって、なんかいいよ。曲はまぁ…あれだけど…。キラキラしてて、綺麗で、見てんの好きだな」  つい素直な本音が口をついた。手塚は一瞬動きを止めて驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。その表情はとても自然で、また知らない手塚の顔を見たと思った。 「今度ライブのチケット送りますよ。女子高生の中に麻生さんいたらうウケるなー。ペンライト振ってね。一緒に送るんで」  今度は鼻で小さく音を立てて笑って、分かりやすく笑顔を見せた。表情ゼロからここまでになったかと思うと野生動物を手懐けたようで悪くない。頭の中では『よーしよしよし』という声が聞こえていた。  家に向かいながら「あ、そうだ。飲みに行ったら、領収書もらえよ」と振り返って言うと「了解」と短く明るい声が返ってきた。

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