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08-04

 目が覚めたのは竹田酒店の奥の和室で、畳に敷かれた布団で眠っていた。すぐ向こうが店内らしく、人が動く気配がする。引き戸を開けるとやはりそこは店で、昨夜最後まで自分につきあってほぼ同じ量の酒を飲んでいたにもかかわらず、きびきびと働く竹田の姿があった。 「起きたんか、佳純。おはよう。この配達の仕分け終わったら風呂と飯用意してやるから、ちょっと待ってな。お前、大丈夫かぁ。アイドルのくせに、ひどい顔してるぞ」  そう言われて、ぺたぺたと自分の顔を撫でてみる。麻生に頬を叩かれたことを思い出した。  外光が差し込む店内は夜と違って眩しくて、世話になった礼を言った後もう一度ふとんにパタリと倒れ込んだ。一夜限りの割り切った相手と寝た後、見知らぬ部屋で目が覚めた時以上に不思議な感じがする。そもそも名前と顔が知られてきてから、そんな目覚め方をしたことなど一度もないが。  生活の香りがひどくする和室で、麻生はあの家で一人で寝たのだろうかと考える。百パーセント、そうなのだろうけど。  昨日、麻生と帰りに喧嘩しちゃってと言って店に戻ったら、竹田はいつもと変わらない調子で、おー飲め飲めと迎えてくれた。 『やっぱ毎日飲んだくれてるってのはまずかったかー。あいつ、人一倍くそ真面目やからな』  甘ったるい梅酒のロックを飲んで、もう一度ビールに戻って、最後はジンロックを飲んで、やっと眠気に誘われた。竹田に肩を担がれ和室に連れていってもらったのは、なんとなくしか覚えていない。  知らない島で、知らない家で、枕に頬をつけていると、アイドルでもなんでもない、何も持っていない自分のような気がした。身軽だから、今すぐどこにでもいける。そんな気持ちになる。  実際には人生の転機となりうる大事な撮影を控えている。逃げるわけにはいかない。逃げたくない。不器用にぶつかり合ってしまう麻生からも。  いつの間にか二度寝していたらしく、風呂入ったぞという竹田の声に目が覚めた。朝から自分のために湯を張ってもらったことを申し訳なく思っていたら、それが顔に出ていたのか、今度姪っ子が大事にしている『SF』写真集を持ってくるからサインしてやってくれと言われて快諾した。  風呂から出てさっぱりしたら、純和風な朝食が準備されていて至れり尽くせりだ。  出汁からちゃんととったのがわかる鯛茶漬けにはこんがり焼いた切り身が乗せられていて、自家製の各種漬物と手焼きの海苔が添えられている。  こんな朝食を毎日とっているのかと驚くと「VIP待遇っすよー。佳純来てからバーの売り上げ今月すでに過去最高やけんね」と、いやらしい感じで親指を人差し指をすり合わせたので笑った。  近く本土の市内にちゃんとしたバーをオープンさせたいのだと言う。店長を誰かに託すのが怖いから思い切れないのだとも。  身の丈にあったことだけしていると、新しい景色は見えない。自分にはあり得ないと思ったアイドル業を始めた時から実感している。  オープンした時に自分がまだアイドルをやっていたら、遊びに来てブログに書くと約束をした。普段騒がしい竹田がそれ以上何も聞くことなく「お互い頑張ろうぜ」と言ってお茶漬けをすすった。『頑張る』なんて言葉は気持ち悪くて使ったことはなかったが、素直に頷く。  睡眠時間が少ないことに慣れている手塚は、夜酒を飲んでも、毎朝朝焼けの海岸で体を動かしていたのに、家に向かって砂浜を歩き始めたのは午前十時頃だった。 『麻生はさー、ほんと馬鹿がつくほど真面目で頑固やけん。でも筋が通ったことにあれこれ言うやつやないよ。ちゃんと話せば大丈夫よ』 『うん、知ってる。あの人、自分の逃げ道一つ作んないよね』  笑っている竹田に手を振って、別れたのが少し前。  昨日帰りかけた砂浜を一人で歩く。帽子も長袖パーカーも身につけないで日差しの中を歩いてきた自分を麻生は怒るんだろうか。そんなことはもう、どうでもいいんだろうか。  ひどいことを言ったのはどう考えても手塚の方だ。子供みたいにみっともない言い方で。酔った上での戯れなんてなかったことにしようというのも、気まずくなるのを避けようと思えば当然だ。  映画が秀野と麻生の思い出でできていても、手塚には関係ない。  麻生が秀野のことを思っていたとしても、手塚には関係ない。…はずなのに、躊躇なくまっすぐに麻生が気持ちを向ける相手は自分であってほしいと思ってしまった。  あんなくそ面倒臭い男のことをそんな風に考えたくはない。  真面目で、単純で、思ったことがすぐ顔に出て、自分が正しいと思ったことは押し付けてきて、仕事の手は抜かない。人のいいところはすぐ褒めて、自分が悪いと思ったらすぐに謝る。  今までこんなに他人のことを考えてばかりなことなんてなかった。嫌なら自分が引けばいいのに、自ら面倒臭さの中に飛び込んでしまう。  誰かに助けて欲しかった。もう一度酒に酔っ払いたかった。  遮るものは何もなく、夏の日差しに焼ける砂の上で手塚は途方に暮れていた。

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