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そこで『鹿の話』が始まったので、やっぱりこの男、何かひとつ越えたところにいるなと手塚は思った。
どうしていきなり鹿なのか、温かいほっとする場所から不思議な謎の中に放り込まれた気分だ。そして最後まで聞いたときには大いに照れ臭くなった。ここまで気持ちをまっすぐに伝えてくる人は他にはいない。
「『たったったっ』って目の前を過ぎて行ったのは本当に一瞬なんだ」
麻生のしなやかな長い指が目の前で弧を描く。
「でも心に焼き付いて離れない。空も海も夕焼けの色で波がさぁっと輝きながら寄せてて、ちょっと俺の宝物みたいな映像なんだけど…、いろんなものたくさん見せてくれたお前に見せたい」
肩を起こされて、手塚の顎の下に指が添えられる。こんなことも今までされた記憶がない。いつも温度変化の少ない表情をしているだけに、口づけたいと欲を滲ませる男の顔が近づくと、鼓動が早くなる気がする。
そっと唇が寄せられ、顎に添えられていた手がするりと頬を撫でる。『あ』っと思った瞬間、体の中に熱が灯る。噛みつくようないやらしいキスをしてやりたくなる。その気持ちを抑えて、すらっとした麻生の首筋を指で辿りながら、薄い下唇を柔らかく口に含んだ。
「っん…あっ…」
弱いところを何度か撫でるとすぐに吐息に濡れた音が混じる。隙をついて麻生の膝裏に片足を差し込む。そのまま体勢を少しずつ入れ替えて、キスをしながら自分から後ろに倒れた。
「麻生さんに押し倒されちゃった」
覆いかぶさるように胸の上に乗りかかる麻生の顔を覗き込んで笑う。
「おー、期待通り啼かせてやる」
両頬をぎゅっと大きな両手で捉えられると、熱い唇が降ってきた。ひとしきりキスをしたあと、額を合わせてくすくす笑う。ちょうど首元に麻生の顔が収まるようにして、麻生を上にぐたりとただ抱き合った。無防備にかけられる体重が心地よかった。
「嬉しい。こうしてるのも、鹿に似てるって言われるのも」
自分で言いながら、つい笑ってしまう。
「鹿に似てるって言われて嬉しいって思わせるのあんただけだよ」
「見たらきっと手塚も気に入るよ」
そう言いながら手塚の上にさらに体を乗り上げてきた麻生は、もう一度優しい口づけをくれた。
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