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13-09

 秀野が撮った映像は美しかった。あの時、本当に手塚が『透』として生きたそのままが切り取られていた。かつて麻生に見せると約束した風景に、それから経たものが塗り重ねられていた。そこには、知っているものと新しいものが入り混じっていた。  映画好きなら、どれだけ丁寧に情景を重ね、どれだけストイックに削ぎ落とされたかわかる映像だ。  祭りの日、ドキュメンタリーの手法で撮った部分も緊張感を持って全体に馴染んでいた。わかりやすい友情や恋愛の描写を、目を奪われるほどの瀬戸内の美しい景色が煽る。  大きなスクリーンの中で次々と表情を変える手塚は、そのままナイーブな島の青年だった。他の五人も瑞々しい空気を纏っていた。全員が経験の少ない新人で、それを逆手にとった、これが素なんじゃないかと思わせる記録に近い演出だった。  単純に美しい映像というだけではなく、苛立ちと不安、喜びと希望、すべての感情が実感と色を伴ってなだれ込むように伝わってくる。  麻生にはそれが自分が島で生まれ育ったからか、秀野との思い出があるからか、手塚と『透』の役に向き合ったからか、ずっと撮影を見ていたからか、よくわからなかった。 『ここにいるから幸せなんだなって心から思えるような映画が撮りたい』  かつて秀野が麻生に言ったそのままの世界がスクリーンの向こうに広がっていた。手を伸ばせば届くような。助走をつけて飛び込めばそこに行けるような。特別であり、日常からの延長の『向こう』であり『ここ』  ラストはオープンエンディングになっていた。透も菜穂もどちらにも会いに行くとも、また会おうとも言わない。透が島に残るのかも離れるのかもわからない。  ラストカットは埠頭に佇む透の姿で、その表情からどんな風にも受け止められたが、清々しい余韻を残していた。  初めてこの映画を見る人はどんな風に感じるのか、麻生は観た人間ひとりひとりに尋ねたくなるほど、胸を打たれた。

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