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第2話

「よかった、道が混んでなくて」  高速道路に入ると、独り言のように樋口は呟いた。 「きみがコンビニで買い物してくれてるときに、交通情報アプリで確認したら、渋滞情報は無かった。まぁ、今夜は空いてるだろう、って俺も予想してたんだ。あとこのまま事故でも無ければ、ちゃんと予定した時間に海の見える場所に着くよ」 淡々と道路情報を語る樋口の横顔を見つめる。夜の高速道路でも、慣れからの落ち着きは見て分かる。 「へぇ……それは良かった」 運転中にはあまり会話は交わさないのは知っているが、軽く相槌を打つ。  車の事になると樋口は語り始める。仕事で詳しいのはもちろんだが。趣味もドライブで、敏樹と会う前には、ひとりで遠出していたという。  敏樹も自動車運転免許証を持ってはいるのだが。現在人気の車種やら、ガソリン代の値段など、理解不能な話題が多い。  免許を取得したばかりの学生時代、親の持っている軽自動車を借りて近所に買い物へ行ったら、車に傷をつけて帰ってきた事があり。そのときは実家の狭い庭への駐車も一苦労して、最終的には父親に頼んで車を停めて貰った。  もちろん現在も自分の車は持っておらず。レンタカーを借りて運転することも無い。いわゆるペーパードライバーだ。 確か敏樹の父親も運転は苦手で。幼い頃も、旅行へ行くときは、特急列車や高速バスを使っていた。  だから、こんな風にふたりきりでの長いドライブをするのは、樋口と出逢ってからが初めてで。そこから一年程、敏樹はずっとこの夜のドライブを楽しんでいる。  長い間の趣味もあって樋口の運転は流石に上手い。安定した運転から、音のない車内は動きも鎮まる。 敏樹は樋口の横顔から目を逸らし、オレンジ色の明かりに染まった夜の高速道路を見つめた。  自分は、このひとを、なんにも知らないよな。  ふと、敏樹はそんな事を想った。趣味の事は語るが、その他についてはほとんど言わない。 年齢は、23歳の敏樹より10歳ほど上、と言っていたから、30代前半。  既婚者……ではないよな。さっき掴んだ左手の薬指に指輪はしてなかったし。それに逢う時刻も、終電間際から車で移動すると必ず一泊するし。家庭があれば難しいだろう。  だが、待ち合わせ場所もいつも敏樹の自宅の最寄り駅で。樋口の住所も、詳しい勤務先も、敏樹は知らない。車のナンバーからすると、そんなに遠くはないだろうが。  でもそれは、樋口に訊いても何も教えてくれない、のではなく、敏樹が何も訊かないからだ。  そのひとの普段の生活場所なんて、知っても知らなくとも同じだ。それに、「どうしても逢いたくなって」なんてわがままから、連絡も無しに突然自宅や仕事場へと向かう、なんて人間にはなりたくない。  車の運転中には人間の本当の性格が出る、という。テレビか雑誌で聞いた話だ。 それならこの何も言わない横顔が、樋口保、という人間の本性。  ぼんやりとしてきた脳内で、敏樹はそんな結論を出した。  逆に、樋口は敏樹をどれだけ知っているのだろう。 樋口を知ったのは出会い系サイトからだが、そのきっかけは、敏樹が初めて厳しい失恋に傷ついたからだ。  思春期の頃から、自分がゲイだという自覚はあった。それでも自己否定はしないよう気をつけていた。 専門学校を卒業し、一人暮らしを始めたのを機に、真剣に恋愛が出来る相手を探し、心から惹かれた男と交際を始めた。このまま一生をふたりで幸せに過ごす、そんな相手だと思っていた。  だが、月日が経つと徐々に連絡が取れなくなり、たまに会えても、おざなりな態度で。我慢できなくなり理由を尋くと、「他に相手ができた」なんてあっさりと言われた。  何故そんなことになったのか? さらに問い詰めると、その男は面倒臭そうに答えたが。 「他者に本気で心変わりした」でも、「敏樹への恋心が薄らいだ」でもなく、「最初から敏樹の事は遊び相手だった」そんな風な返答をされて。  初めて真剣に想ったひとで。そのひとも自分を真剣に想っている、そう信じていたから、余計にショックを受けた。 初めて身体の関係を許したのもその男だ。そのときの感覚なんて、もう覚えてはいないが。 泣くのも悔しくて。酒には弱い方なのに、色んな種類の酒を今までにない程飲んで、もはやどうでもよくなり、パソコンの電源を入れた。 どこか抵抗があった出会い系サイトを使ったのは初めてだったが、『一夜限りの相手募集』というスレッドに自分のメールアドレスを書き込んだ。 そして一番最初に来たメールにあった電話番号に速攻で連絡を取り、待ち合わせ場所に近くの駅前を頼んだ。  持ち物や服装もろくに気にせず駅前に向かい、ぐちゃぐちゃの思考回路で待っていると、よろけた身体が誰かに支えられた。そしてそのまま車に乗って、すぐに眠りに落ちた。酒に酔ったせいでもあるし、心の中で泣き疲れたせいもある。 そんな所までは、うっすらと覚えているんだよな。 「うん……?」  薄明りに意識が戻ると、そこが車の中だというのは分かったが、誰と何があったのか、は記憶になかった。 けれども、そこまで身体は痛くない。首元や背中にふんわりとしたクッションが当たっていて。ちゃんと毛布も掛けられていたから、冷えてもいなかった。 ぼんやりと起き上がると一瞬眼が眩んだ。外を眺めると、赤紫に染まる空と海が広がって、海から昇る橙色の太陽が眩しかった。 (ここは海の……夕暮れか? いいや、朝焼けだ)  そこで完全に目が覚めた。 運転席を向くと男性が居て、敏樹が目覚めたのに気付き、穏やかに微笑んだ。  それが樋口との出逢いだった。 (昨日、会ったひと……だよな?)  昨夜の深酒でまだ頭の重たい敏樹は、樋口が買ってきてくれたミネラルウォーターを飲んで、その日は何もしなかった。 交わした会話も、敏樹からの昨夜の謝罪と、簡単な自己紹介くらいだ。なぜあんなに酔った状態でサイトに書き込んだのか? なんて問い質される事もなく。  最寄り駅まで送ってもらい、その帰り際、 「次はちゃんと逢いたいです。また連絡していいですか」  そう頼んだのは敏樹からだった。  自分はこの優しいひとに迷惑かけた鬱陶(うっとう)しい奴だし、どうせ断られる、と覚悟していたが。  樋口は傍に置いてあったメモ帳にすらすらと何かを書き込み、微笑みながら敏樹に手渡した。そこにはひとつのメールアドレスと、樋口保、という名前が書かれており。 「スマートフォンのアドレスです。今度はこちらに送ってください。ちゃんと登録しておいて下さいね。こちらからも連絡するので」 穏やかな口調で、これからまた会いましょう、という意味の言葉が樋口から返されたときは、正直驚いた。 昔の厳しい失恋も、思い返すとなんだか馬鹿馬鹿しい。そしてそれがあったからこそ、現在こうして樋口と過ごす時間が貰えた。そう考えると笑い話にも出来るんだよな。

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