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第3話

「見えてきた」  静かな車内で呟いた樋口の横顔に目をやると、微笑みながら斜め方向を視線で指した。それを追うと、煌々(こうこう)とした月明かりに、広々とした水平線が敏樹の目に映った。 「ほんとだ! 海だ、夜の海だ! 嬉しいな……一年ぶりだ!」  窓に張り付いて、子供の様にはしゃぐ敏樹に、樋口はカーナビを確認しながら笑う。  もう深夜だし、海辺に出ると風が冷たい。だから温かい飲み物でも買って、車内から夜の海を楽しもう、という話になって。コンビニにふたりで入り、ふと酒類の棚の前で立ち止まる。 (どうせ綺麗な海を見るなら、少し気分を変えたいよな)  そう思っていると、背後から伸びた腕が、敏樹の好きな缶チューハイを掴んだ。 「海を見ながら飲むやつを探してたんですけど」  振り向いて言うと、樋口は穏やかに笑う。 「助手席で呑んでいいよ。車内用の消臭剤も置いてあるから」 缶チューハイを入れたカゴを持ってレジへと向かった。樋口はもちろん飲酒運転などしないし、元々アルコールが好きではないらしく、酒は呑まない。だが、飲食店やホテルで敏樹が軽くビールやチューハイを呑んでも嫌な顔はしない。 こんな風に、樋口が敏樹の気持ちを読み取り、心地良くさせてくれる事は結構多い。 (まぁ、最初があれだけ酔ってたらからな)  もうあそこまで酔い潰れないよう気を付けなきゃ。    夜の海を見ながらちびちびと缶チューハイを呑む。無言でコーヒーを飲む樋口に、 「初めて会ったとき、何故海へ連れて行ってくれたんですか?」  さりげなく敏樹は尋ねると、樋口は少し表情を変えた。 「海なら、落ち着くかな、って思ってね」  少し考えてからの答えに、 「ありがとう……ございました」  よく理解できなかったが、それだけ応えた。 落ち着く? 酷く酔っていた敏樹を落ち着かせるためか? 酔っぱらいを目にした樋口自身が落ち着こうとしたのか?  その後は、迷う事も無くすぐにホテルに入った。普段通りに樋口が予約していたのだろう。ホテル代は敏樹も半分払っている。年下だからって、なんでもかんでも頼るのは嫌だ。 いつも樋口が選ぶのは、派手にごてごてしていない、シンプルな雰囲気の部屋。敏樹はソファに腰掛けると、缶チューハイを開けて、 「今夜もありがとうございました、樋口さん。長い運転で、疲れたでしょう」  軽い調子で、先に風呂に入るよう勧めた。 シャワーの音を聞きながら、去年の海へのドライブを思い出すが、海までの道のりは記憶に残っていない。 (初めて会ったときは、何もされなかったよな) 身体のどこにも違和感がなかったので、それははっきりと分かった。樋口と初めて肉体関係を持ったのは、二度目に逢ったときだった。 風呂から上がってきた樋口は、着痩(きや)せするのか、服を着ているときより(たくま)しい身体付きをしている。自動車整備士とは力を使う仕事だろうし。逆に敏樹は、パソコンの前で朝から晩まで過ごす事が多く、筋肉も(ほとん)ど付いていない。 入れ替わりで風呂に浸かると、ぬるい湯加減に皮膚が震えた。でもそれは、これから樋口に貰える快楽の想像もあり。敏樹の身体の内部はじんわりと熱くなる。 風呂から出ると、樋口はベッドに腰掛けてスマートフォンをいじっている。何も言わずに隣に座ると、樋口も無言のまま、スマートフォンを足元にあるバッグの上に置いた。そうして敏樹の両肩をそっと掴むと、ベッドに身体を沈めた。  押し倒される、という表現は似合わない。樋口とのセックスはあくまでも優しくて。それが、すぐに心がささくれ立つ敏樹にはとても心地良い。 「やっ……くすぐったい」  荒れた指先でそうっと触れられ、身体を縮めて笑う敏樹の姿に、樋口もクスッと笑う。 「ふふっ……はぁっ、はっ……あ」 両方の指で様々な部位を探られていくと、敏樹の笑いは喘ぎに変わる。 胸元を摩りながら乳頭を弄られたり、内腿を撫でて敏樹自身を優しく包み込んだり。 「あ、あんっ……やっ……やあっ」  後ろから入れられた樋口の指が敏樹の一点を押すと、優しい動きからでも、強い刺激が走り、ぎゅっと瞳を閉じた。 「あぁっ! ……あ、ん」  いつもより早く達した敏樹が、うっすら瞳を開くと、樋口の笑顔が映った。 表情は満足そうだが、こうしている最中も「愛している」や「好きだ」と言われたことは一度もない。  (このひとは……自分と身体の相性がいいから……こうして逢ってくれているのかな)    出会いは一夜限りの相手募集だったし。 敏樹だって何も言わないし、何も訊かない。  でも、それを一年間も続けられたら。 「うん……んっ」  樋口が達したのを中で感じると、その耳元に唇を寄せた。 「明日……早くに、また、海辺まで……行ってください」  絶頂後の深い吐息に交じって、敏樹はわがままを言った。 「海の、朝焼けが……見たいんです」  それを聞いた樋口は、無言のままゆっくりと口付ける。その優しい唇の感覚から、了解の返事だと分かった。 「朝焼けは近くで見たい」 との敏樹のわがままから、朝早くにホテルを出て、しばらく車を走らせると、 「ここら辺が丁度良いかな」 朝日が眩しい海辺で樋口は車を停めた。真っ先に外へ出ようとドアを開けると、朝の海風に敏樹の身体が震える。 「こっちの方が暖かいよ」 そう樋口が手渡したコートを受け取ると、敏樹はふんわりと笑った。  大き目のコートを羽織(はお)り、人気のない朝の海辺で、そっと敏樹は樋口に寄り添う。すると、自然と肩を抱かれた。 (早朝の海辺に居るのに、いつもより暖かいのは……上着が違うから、だけではないよな)  一年前を思い起こす、鮮やかな色に染まった空と海の境界線を見ながら、敏樹は樋口への愛情をはっきりと認めた。  それまでも感じてはいたんだ。見て見ぬフリをしていただけで。 「自分をどう思っているんですか」  そう訊けないのは、過去に嫌な答えが返ってきた思い出がよぎるから。樋口はそれとは別人だし、重ねるのも変だとは思うのだが。また相手を問い詰めて、鬱陶(うっとう)しがられるのは苦しい。  どんな言葉を返されるのが怖くて。  ただ、こうして逢う時間だけを大切にしていたい。 それがいつまで続くのかは分からなくても。    冷たい外気の中で、ほう、と白い息を吐いた敏樹に、樋口は車の鍵を手渡す。 「先に乗っていていいよ」  礼を言って車に向かい、助手席のドアを開けると、そこには敏樹のジャケットが置いてあり。 (あっ、今着てる上着、樋口さんのだった)  後ろに置いておくか、と散らかっている後部座席に上着を置くと、ばさり、と何かが落ちる音がした。それを手に取ると、大き目の封筒だ。  ふと、差し込んだ明かりから、樋口 保 様、という宛先の上にある文字が目に映る。 (結婚……紹介、サービス)  綺麗なものを目にした後に限って、こんなものも見てしまうんだよな。

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