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第4話

 千葉の海からの帰り道、敏樹は樋口に何も尋ねることは出来なかった。  後部座席に落ちた封筒を手に取ったとき、敏樹は誰かに操られるように、中身の封書を開いて読んだ。そこには「前回のパーティーに参加していただき~」なんて言葉が綴られており。樋口は結婚活動を進めている、という事実がはっきりと分かった。  それからずっと樋口とは会っていない。そして樋口から来る電話にも応えていないし、メールも未読のまま削除している。  このまま放っておけば、そのうち連絡も無くなるだろう。  休日もひとり、一日中部屋でだらだらしている。こんなのは駄目だ、とも思っていたが、ずっと憂鬱(ゆううつ)な理由も分かっていた。 (夜のドライブに行ってないから)  仕事場のパソコン画面に映る綺麗な景色を目にしたり、同僚が喋るご当地グルメの話なんか耳に入ると、そこへ車で行きたいな、との思いがよぎる。 (レンタカーを借りてひとりで出掛けようかな)  首を横に振った。そんなんじゃ満たせないのも、分かってはいたから。  理由(わけ)もなく残業を入れ、心身共に疲れ果てた仕事帰り。改札を出た敏樹の目に、思いがけない風景が飛び込んできた。 大きめのコートを来た男性。(まばた)きして確認すると、やはりそれは、敏樹も一度羽織った事のあるコートだった。  駅中で所在無さげに(たたず)む姿をもう一度見つめ、咄嗟(とっさ)に大声で名前を呼んだ。 「樋口さん?」    その声にはっと顔を上げた樋口の元へ、勢い良く敏樹は駆け寄った。 「突然すまない。でも、こういう事は、ちゃんとしておきたかったんだ」 (こういう事、って……別れ話の事か?) だいぶ長い時間待っていたのか、樋口の顔は耳元が赤くなって、唇が蒼褪(あおざ)めている。 「とっ、取り合えず、どこかに入りましょう」  部屋へ招こうかとも考えたが、自分の生活空間に樋口が居る場面を思い浮かべると、何故か耐えられなくなり、自宅マンションとは反対方向にあるラブホテルへ向かった。 「連絡を無視していたことは謝ります」  ソファに腰掛けた樋口が話を切り出す前に、敏樹は言い放った。 「ちゃんと話さなくても良いかな、なんて思ったんです。だって……もう自分は樋口さんと会わない、って話ですから」  樋口の向かいに敏樹は座ったが、視線は合わさずに喋る。すると、ふたりの間に沈黙が訪れた。 「……きみに真面目な恋人が出来たのなら、俺はもう、きみから離れるよ。この場所へも二度と来ない」 やっと口を開いた樋口は、どこか苦しそうに呟いた。 「樋口さんが自分と離れたほうが良いのは、そっちに真面目な相手が出来るからでしょう?」  感情に任せて(にら)みつけると、 「それか、結婚してからも、自分と付き合う気でいたんですか?」 怒鳴り声で質問を続ける。すると、樋口も疑問の表情を見せた。 「結婚? 俺が?」 誤魔化(ごまか)す気か? 敏樹の頭はカッと熱くなったが。ただ怒りをぶつけて終わるのは嫌で。瞳を逸らし、なるべく心を落ち着かせる。 「樋口さんの車に置いてあった、結婚案内所からの手紙を見たんです……偶然にですが」  中身も覗いたのは偶然ではないが。 「ゲイでも結婚願望がある人はある、って言うから、樋口さんが結婚するならしてもいいです。でも、自分は不倫相手なんて絶対に嫌だ。もし男ともセックスしたいなら、ほかの相手を見つけて下さい。自分はまだ若いし、新しく探すより手っ取り早い、とか思ってたのなら、自分はそんな都合のいい人間じゃないって、ちゃんと知ってから離れて……」 「敏樹くん」  はっきりと名前で呼ばれ、喚いていた敏樹はびくっと口を噤んだ。樋口はいつも敏樹を「きみ」や「高塚くん」と呼んでいて、下の名前で呼ばれることは初めてだったから。 「婚活は、妹から無理強いされてるんだ。これからちゃんと断るよ」 「妹さんから?」 「きみと千葉に行った、一週間ほど前だったかな。妹が自宅に突然やって来て。『もう近場でのパーティーを申し込んでいる』なんて、泣きつかれて断れなかった」  溜息をついた樋口からの、こんな話を信じられるか? 敏樹は自分自身に問いかける。 「家族の話を、全くしてなかったのも悪いか……きみと出逢って、もう一年も経つのにね」 何も言えない敏樹に、ちらりと樋口は視線を向けると、淡々(たんたん)と語り始めた。 「実家には父と妹が、ふたりで住んでいる。母親は病気で亡くなった。そして半年程前に、父も身体を崩して。現在(いま)は普通に暮らしているけど、妹が過剰に心配してね」  初めて聞く樋口の過去や家庭環境に、見知らぬ人物の伝記を聞くように、敏樹はじっと耳を傾ける。 「まぁ、母が亡くなったのは俺が高校の頃で、まだ妹は中学生。高校卒業してすぐに、俺は家を出てしまったから、それからずっと妹は父とふたりきりだ。それが負担で、兄夫婦と父親の同居、なんて将来を思ってるんだろう」 話がひと段落ついたのか、樋口は敏樹を見つめた。  このひとは、いきなりやって来て、こんなすらすらと嘘を並べる事が出来るか?  心の中での自分自信からの質問に、敏樹は首を横に振った。 「自分と別れないのは、妹さんに婚活を断る理由として、相手が欲しいから?」  嫌味な問い掛けになってしまった。 「それなら、結婚できる相手じゃないと駄目だ。俺の……性癖については、家族には言ってないし」 カミングアウトしていないんだ。そうだな、まず樋口の妹も、兄がゲイだと理解していたら「結婚しろ」なんて言ってこないか。 (このひとは、自分を必要とはしないか) じゃあ何故、樋口はメールも返していなかった敏樹の元へやってきたんだ? 樋口も大人だし、相手がきっぱり連絡を切れば、もう会いたくないのだと分かるだろう。 婚活を押し付けられて、さらに新しくセックスフレンドを募集するのが面倒だから?  俯いた敏樹の表情から、その心の内を樋口は勘付いたのか。 「きみは……敏樹くんは、俺が一緒に居たい、唯一の相手だよ」 そんな言葉を投げられて、思わず顔を上げた。 「これをちゃんと伝えておきたかったんだ」 このひとがいきなり、連絡を無視していた敏樹の元へやって来たのは、別れ話なんかではなく、樋口からの想いを告白しようとして? 「なんで、突然、そんな事……いままで、そんな風に、言ってくれなかった」 戸惑いながら思いを伝えると、 「きみには、忘れられない相手が居るんだろう?」  樋口は寂し気に言った。 「初めて会ったとき……そのひとへの想いを語って、思い切り泣いていたじゃないか」  気まずそうに言葉を続ける。 「泣きながら、なんて言ってたんですか?」 「覚えてないのか?」  樋口は驚くと、答えるのを躊躇(ためら)った。過去の恋愛を思い起こす、と敏樹を気遣ってくれているのか。 「もう一年も前の話でしょう」 軽い調子で急かすと、 「まぁ、その相手との思い出とか、ずっと一緒に居たかったとか……」 眉間に皺を寄せながら語る。それも嘘ではないだろうが、全く敏樹の記憶には無かった。 「それは、酒のせいでめちゃくちゃになってたんです。もう終わった恋愛だったし」 そこまで酷く泣き喚いていたというなら、ただの言い訳だが。 「それでも想いは残るだろう。他の男と比べて(けな)されるなんて、もう俺は勘弁して欲しかったし……」  途端に樋口が口を(つぐ)んだ。 「自分はそのとき、過去の相手と比べて、樋口さんを悪く言ったんですか?」  記憶には無かったが。もしそこまでめちゃくちゃになっていたなら、心から樋口に謝りたかった。 「いいや……敏樹くんからではないよ。すまないね」   他の人間から貶されたって事か?  このひとも、過去に辛い恋愛をしたのか?  でも、このひとを貶した人間の話なんて、聞きたくなかった。

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