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Ⅰ-4

――身体の痛みなどなんて事は無い。  傷は跡になっても塞がらないわけではないし、自分が犯した罪に比べればこれくらいの痛みは大した事じゃない――――――呪文のように(いずみ)はそう繰り返す。 ――9歳のあの日から、ずっと、ずっと――――。  その日は約束の時間になっても隣に住む幼馴染みの(のぞみ)は家に来なかった。  明日もまた遊ぼうねと、昨日別れたはずなのに……。  痺れを切らした泉は母親に希を誘いに行くと伝え家を出た。家の呼び鈴を鳴らしても誰からの反応もなかった。寝ているのかもしれないと泉は慣れ親しんだ希の家の庭に周り、リビングのある窓へ向かった。  いつもは開いているカーテンが閉まっていて、留守なのかもしれないと泉はカーテンの隙間から中を覗いた。 ――そこに希は、いた――――。  泉はあまりにも驚いて声を出しかけたが必死に口を抑えて息を止めた。  それはあまりにも恐ろしい光景だった。  希は全裸でこちら側を頭にして仰向けになり、恐怖と絶望が混ざったような酷い顔で泣いていた。その小さな身体の上には希の父親が馬乗りになり、薄気味悪い笑みを浮かべながら希の身体のあちらこちらを舐め回していた。  希は泉に気付き二人は目が合った。泉の心臓は破裂してしまうのではないかと思うくらい胸の中で激しく震え、暴れ回っていた。すぐに父親にも気付かれ窓が開く。泉は見たこともない鬼のような形相の男に捕まりあまりの恐怖に声も出なかった。  リビングに引き摺り込まれ、手首を掴まれたまま低い声で希の父親は口の端を上げながら告げた。 「光流(ひかる)ちゃんが誰かにこの事を話したら――光流ちゃんも希と同じ目に遭うからね……」  泉は眼を見開き、涙を浮かべながら恐怖で震える身体を何とか動かし何度も頷いてみせた。  すぐ横には身体のあちこちを内出血させた痛々しい身体を震わせ、涙で顔をぐちゃぐちゃにした状態の希が膝を抱えて座っている。どうにか希に声を掛けたいのに泉の喉は恐怖に震え過ぎて、何の音も紡げなかった。   「わかったらお家に帰って、希は留守だったって家の人に言うんだよ」  希の父親にそう促され、半ば這いつくばるようにヨロヨロと力の入らない足を必死に動かし、リビングから庭に転げ落ちるように出た。背後で窓が勢いよく閉まって行く瞬間、振り絞るような希の声が聞こえた。 「助けて!光流ちゃん!!」  泉は肩をビクリと揺らし、慌てて振り向くが、窓からは内鍵が閉まる音が聞こえ、カーテンはきっちりと隙間なく締め切られ、完全に二人の間は遮断された。  恐ろしくなった泉は慌てて自宅に走った。そして決して一度も振り返らなかった。 「た、ただいま……」  泉は母親のいるリビングに戻って来た。 「あれ?早かったね光流。希ちゃんは?」 「お家にいなかった……」 「あら、そうなの?どこ行っちゃったんだろうねぇ〜」  泉の頭の中で、己の父親から必死に逃れようとしてこちらに手を伸ばし、助けを求め叫んでいたあの希の泣き顔が何度もフラッシュバックしていた。  その夜、泉は部屋の窓からあの父親がやってくるのではないかと恐怖に慄き、なかなか眠ることが出来なかった。  翌朝、迎えに来た希はあからさまに落ち込み、その顔には大きな絆創膏が貼られていた。泉の母親が心配そうにどうしたの?と聞くが、希は転んだと答えるだけだった。  泉は小学校に着く間、一言も希に声を掛けることが出来なかった。絶対に昨日の事を責められると思っていたのに、希は黙ったままずっと俯いていた。    一つ学年が上がる頃には自然とクラスメイトと遊ぶことが多くなり、泉は希と遊ばなくなって行った。  今まで通り登下校は同じ班だが、以前に比べ話すことは減って行って、希がどこかに痣を作って来ても泉は気付かないふりをした。  そんな中、事件は起こった――。  希の家の窓ガラスが割れる大きな音が響き、泉は両親と一緒に希の家の庭に走った。  そこには頭から血を流してうつ伏せに倒れている青白い顔をした希の姿があった――。 「希ちゃん!!」  泉はその名を数年ぶりに叫んだ気がした――。  前は毎日のように呼んでいたのに……。  希の顔にはいくつも殴られたような跡があり、幼い小さな顔は恐ろしく腫れあがっていた。泉の両親はそれを見せてはいけないと泉を傍へは行かせなかった。 「希ちゃん!!死なないで!!」  泣きながら泉は必死にそう叫んだ――――そして、希の父親は逮捕された――。  病院のベッドの上で希は青紫色の頰をしたまま、ぼんやりと外を眺めるように上半身を起こしていた。  泉はずっとその横で静かに泣いていたが、希にはその姿が見えていないかのように無反応だった。 「希ちゃん……、ごめんね……」  その言葉にピクリと希は反応し、無表情のまま視線を泉に移し、ようやく言葉を発した。 「なんで、謝るの――?」 「だって……、僕、ずっと、知って、て……」 「光流は……怖くて話せなかったんだろ?」 「っ……うん」 「俺も――、話したら殺すとか……、光流にも同じ目に遭わすとか言われた……」  希はまた視線を泉から外すと、覇気の無い弱々しい口調で静かに告げた。 「光流…….本当に、悪いと思ってんなら……」  希の眼は急に鋭く光を持つように強くなり、大きく見開き、泉を見据える。 「償えよ」  まるであの時の、希の父親のような眼だと泉は感じた――。  そして、泉の涙は一粒落ちると静かに止まった。  何かを決意したかのように泉は真っ直ぐに希を見つめ「わかった」と短く答えた。  あれは幼い子供のただの約束だったのか、それとも悪魔の契約だったのか――。  正しいも悪いも泉たちにはどうでもよかった――。  子供心の罪悪感は方向性を間違って、折れ曲がって、八つ当たって――、歪んで――、壊れて――。  希の怒りと悲しみは暴力となって泉に投げつけられ、一年もする頃には性的欲求となって現れだした――。  それに対して泉に怖さはなかった――、いつかこうなると、どこかでわかっていたからだ――。  ただ物理的な肉体への痛みが辛いだけだった――。    男の自分の身体の中に、男の希がいることが泉にはただ不思議な感覚だった――。  高校の三年間、希は泉とは別に何人もの彼女と付き合ったが、長くても二週間しか続かなかった――。  眼の周りの腫れを誤魔化すための伊達眼鏡が泉に癖ついたのもその頃だ――。  すっかり歪んでしまった泉の人格は昔のような純粋な子供らしさも失われ、常に希を中心にして回っていたせいか、仲の良い友人の一人もいなかった――。  と言っても、高校に入学した当時からあちらこちらに傷を作り、痣なのかキスマークなのかわからないようなものを付けてくる泉は、同い年の他の子供たちからは完全に浮いた存在だった――。  二人の絆は、歪みに歪んで、道徳もなにも判断できないくらいに捻じ曲がっていた――。  何度も何度も、泉は女のように希に抱かれ、自分のセクシャリティについてあまり考えなくなっていった――。  自分の身体の上で行為に耽る希は普段よりずっと無防備で、泉が知る中で一番生身の人間らしく思えた。  少し震えて声を出し、自分の中で達するその姿に泉はいつの間にか快感を覚えた――。  それは最早母性だ――、  自分の雄の性的本能なんてものはとっくにどこかへ無くなってしまったんだと泉は悟った――。  今や希を(たの)しませるためにあるような泉の秘められた場所は、希に与えられる刺激を常に素直に受け入れ、それが熱くなった希自身であろうとも、無機質な器具だとしても希の求める通りに泉は喘いでみせた――。  気持ちが良いかと意地悪く希に聞かれるたびに、気持ちが良いと素直に答えた。  そうすると希はひどく気分が良いみたいで満足気にいつも笑った。  それを見て泉はただ、安心するのだ――。  高校卒業と共に、お互い実家を出て、大学に近いマンションで二人は住み始めた――。  泉の髪は鬱陶しそうに、前髪は鼻先まで伸び、襟足も肩に着きそうだった。  引っ越してすぐは泉の母親から身を案じる電話がよく入った。それは純粋に母親として遠くにいる息子を案じるどこにでもあるものだった――。  元気でやっているか?一緒に暮らす幼馴染みとは仲良くやっているか?どの質問も答えはイエスに決まっている、決して嘘はついていない。  ただ――、母親が想定する、仲の良い幼馴染みとは違う形というだけだ――。 「洗濯しようと思ったらポケットに入ってたよ。今度返しておいて――?」  泉は女性物のピアスをジップ付きの小さな袋に入れて希に差し出す。「事件現場の証拠品みたいだな」と希は笑っていた。  希が今どんな彼女と付き合っているかなんて泉にはどうでも良かった――。彼女が居ようが居まいが、自分への扱いが変わることはないのだからなんの意味も持たないのだ――。  そして希は決して二人の家に自分以外の他人を連れ込まない――。  謎のルールが希にはあるようだった。  泉は思うのだ――。  まるでこの部屋は、自分のためにある牢屋なのかもしれないと――

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