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Ⅰ-5

 (いずみ)が制服に着替え終わると更衣室のドアが開き、向こうから茅葺(かやぶき)が入って来た。こちらに気付き「おはようございます」と会釈する。 「おはようございます」  挨拶を返す泉の左頰には大きなガーゼが当てられており、普段は縛っている髪もそれを隠すかのように下ろされたままだった。茅葺は苦い表情を浮かべた。 「その顔……、俺のせいですか」 「違うよ――、茅葺くん。もう俺なんかに関わらない方がいい、気分を悪くするだけだよ」  何かを諦めているかのように儚い笑顔を泉は浮かべている。その姿に茅葺は苛立ちを覚えた。 「なんでっ、そんなことっ」 「痛ッ」  思わずその細い肩を茅葺が掴んだ瞬間、泉は痛みに顔を歪めた。茅葺は慌てて手を離す。 「ごめんなさいっ」 「ううん、違うよ、力が強かったとかじゃないから、大丈夫……」  その言葉に茅葺は動きを止める。嫌な予感がした。いつもは見えるようなところに跡を残して来なかった男が顔なんかに怪我を負わせた。これはいつもと違う――。不穏な気配に気付いた泉は茅葺の手を制止しようと対抗するが茅葺は無理矢理に泉の服を剥いだ。  目の前に現れた細く薄い肩は赤紫色に何箇所も内出血していた。首の付け根にも抑えられたような指の跡が見える。  茅葺は腹の底に沸き立つ怒りで震え上がる。 「目覚ませよ!こんなのっ!いつかアンタ殺される!!」 「大丈夫」 「大丈夫じゃねぇよ!」 「(のぞみ)――」  泉の声が急に強くなる。 「――希は俺を殺せない。あいつは――、一人ぼっちになる勇気なんて、ないんだ――」 「泉……さん……」 「もう、関わらないで」  泉は穏やかに微笑み、茅葺にもう一度静かに告げた。 ――何かで読んだことがある――。  虐待を受けて育った子供は、大人になると自らも誰かを虐待する――。  それが唯一、心の逃げ道だから――。  泉は知っていた――。  痛みや疲れで意識を無くした後、泉の手を握り、声を殺して泣いている(のぞみ)がいつもいることを――。  薄れゆく意識の中でもう何度と無くそれを見た――。  身体が重くて、声を出すことは叶わなかったけれど、泉はいつも思っていた…。  "自分は平気だ"と――。  あの時逃げた自分自身を今でも許せなくて、希にこうされることで自分が少しでも償え、許されていると思えるのだと――。  それが道徳的に正しいことでなくても、泉には構わなかった――。  勤務時間が終わり、その道すがら、今から帰ると連絡の電話を泉は希に入れた。そう命令されたわけではなかったが、教えておいた方が希の機嫌が幾らか良くなるので泉は連絡を怠ったことはなかった。  いつものようにスーパーに寄り、二人分の食材を買い、いつものように少し急いで家に向かう。  玄関の鍵を開けようとした時、ふと背後の気配に気付き、泉は振り返った。 「茅葺くん!?」  泉は激しく動揺した。この家に他人が近付くことなど希が許す筈がない――。それが茅葺なんてもっての外だ――。 「帰って、こんなこと困る!」  中にいる希に気付かれないように極力声を抑えて泉は茅葺の肩を押し懇願した。だかそれは泉の叶わぬ願いだったらしく、中から鍵の開く音がした。 「何だよ王子様。3P(さんピー)でもしに来たのか?」  火の付いたタバコを咥えた希が揶揄するように笑いながらドアを開けた。泉は一気に蒼ざめる。 「希……」 「王子様に茶ぐらい淹れてやれよ。光流(ひかる)」  タバコの煙が細長く、薄ら笑いを浮かべる希の顔の前を登ってゆく。茅葺は一言も声を発さずに希だけを鋭い眼差しで睨みつけていた。泉はすでに希の顔を真っ直ぐ見ることが出来なかった。 「光流」  今度は強く名だけを呼ばれ、泉は茅葺を押さえつけていた手を諦めたようにゆっくりと解いた。  言われた通り泉は台所で湯を沸かし、三人分の飲み物を用意している。振り返った居間では自分を抜いた二人がテーブルを挟んで向かい合って座っている異様な光景があった。茅葺はずっと黙って希を睨んだままだったが、ようやく口を開く。 「何であんな動画送って来た」 「うまく撮れてたろ?少しはオカズに出来たか?」  その会話に泉はハッとする。昨日携帯で希が自分を撮影していたのは茅葺に送るためだったのかと、軽く血の気が引く思いをしながら泉は視線を落とした。  出されたコーヒーに希だけが唯一手をつけている。 「で――?続きが見たくて来たの?それともヤりにきた?」  挑発的な希の物言いに茅葺の怒りは収まるどころが湧き上がる一方だった。 「アンタがしてることは暴行だ!立派な犯罪なんだぞ!」 「ふーん、あっそ」 「アンタな!」  二人の温度差の激しいやり取りを泉は居心地悪そうに膝を抱えて聞いている。今すぐここからいなくなりたい、それだけだった。 「てゆーか、王子様は何がしたいの?それともあれ?こいつに惚れたとか?」 「そんなんじゃっ――」 「じゃあ何?同情?お前年下だよな?光流も舐められたもんだなぁ」  くくくと嫌味な笑い声を希はあげた。 「どっちにしろ、憐れまれた訳だ、光流。お前、助けてってこいつに泣きついたの?」  目線を合わせようとしない泉の髪を引っ張りこちらを向かせ、その顔を覗き込むように希は近付いた。 「違ぇよ!俺が勝手に来たんだ!!」 「え〜優しい〜〜!何も言わずに助けてくれるとか超優しい〜〜!!」 「てめぇ――!」 「助けてくれって頼んでも助けない奴もいるってのになぁ?」  希は一度茅葺に向けた挑発的な視線を泉に戻す。泉はどこか辛そうな表情を浮かべ、唇を噛み締め、俯いたままだ。 「ずーっとさぁ、知らん顔してる奴もいるのになぁ?ヒ、カ、ル!」  希は乱暴に泉の頭を掴み、ガクガクと前後に揺らした。泉は痛覚を持たない人形のように無抵抗のままだ。 「何とか言えよ!オイッ!」  痺れを切らしたかのように希は怒り出し、泉の頰を打つ。泉の身体は簡単に床に倒れた。 「オイ!やめろよ!!」  茅葺は泉を心配し、傍に行くために立ち上がろうとするが、希に胸ぐらを掴まれ強い力で押され、そのまま尻餅をつく。反撃するよりも先に腹を思い切り蹴られ、痛みと吐き気から激しく咳き込み、倒れながら身体を丸める。蹴られた場所を庇うように抑えていた腕を希に掴まれ、両手をガムテープで縛られる。 「外せよ!オイッ!!」  茅葺は必死に抗うが縛られた両手はビクともしなかった。最初から希はこうするつもりで自分を部屋に招き入れたのかと茅葺はようやくその魂胆に気付く。 「こんなもん全部、お前の自己満足だろが」  希は立ったまま、床に転がる茅葺に視線を落とし、怒りが持つ熱とは逆に氷のような冷たさでそう吐き捨てた。 「だったらそのオナニー、俺も手伝ってやるよ」 「なに、言って……」 「おい、光流。王子様悦ばせてやれよ」  ようやく身体を起こした泉はその言葉に思わず固まった。 「ハァ?!アンタ何を……」 「お前が連れて来たんだろが、さっさとヤれよ!」 「違う!俺が勝手に 「うるせぇ!!!」  ビリビリと迅雷が走るように希の声は部屋に響いた。その、あまりの殺気に茅葺は完全に言葉を失う。 「――いいから、お前は黙っとけ」

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