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Ⅱ-3
「ねぇ、希 」
俺が話しかけると希は唐揚げを掴もうとしていた箸を止めてこちらを見た。
「希はどうなることが――幸せだと思う……?」
「ハァ?」
――失敗した。
希が出した剣呑な声色でそれは十分に理解した。なのに口は動きを止めてくれない。
俺はどうかしていたのかもしれない――。
茅葺 くんに出会って、今まで繰り返して来た毎日が異常なんだと改めて思い知らされた。
今まで自分が一度も覚えることのなかった恋情の味を知り、まんまと酔って。自分もあちら側の世界で生きていけるんじゃないかと勘違いしたんだ――。
「――だって、俺たち。いつか別々になるでしょ?」
絶対に言ってはいけない言葉を
俺はとうとう口に、形に、してしまった――。
だけどもう、俺はそれを止められなかった――。
「この先ずっと――」
「うるせぇ!!」
怒鳴り声と共に強い力で頰を打たれ、俺が手にしていた茶碗や箸は荒い音をたてて勢いよく畳の上を転がった。同じ方向に身体も一緒に飛ばされ、畳に着いた顔は少しその上を滑り、頰にチリッとした熱が走る。
「何なんだよお前は!いつかとかこの先とか――いっつもいっつも未来の話ばっかしやがって!!そんなに夢見ててぇかよ!!」
手をついてようやくあげた顔は怒りの収まらない希に再び強く打たれ、身体ごと畳に倒れ込む。口の中に血の味が滲む。反射的に唇を押さえた指に血が付いた。
希はひどく興奮していて、荒い呼吸に合わせ肩を上下に大きく揺らし、両手を力一杯に握り締め、上気した顔と鋭い眼光で俺を見下ろしている。
ふと何か閃いたのか、それとも思いついたのか、希はひとりでに納得したかのように何度か頷いて頭を揺らした。
「――ああ、そうか。お前――好きな奴が出来たんだろ」
俺は希が思いがけない言葉を口にしたせいで酷く動揺し、慌てて顔を上げた。
「違うよ、そんなんじゃっ」
「――誰だ、店の奴か?」
「違うってば!」
熱した岩が燃えるように酷く険しい顔をしていた希が、今度はニタリと悪魔のように表情を変え、静かに笑った。
「ああ……。茅葺か」
背筋に冷たい何かが走るような酷い寒気と急な緊張による心臓の熱が身体の中でめちゃくちゃになって暴れている。発した声が勝手に震え、掠れる。
「違う……」
「安いなぁ、お前。一回ヤッたらもう惚れちゃった?」
「違う……ねぇ、希お願い……」
「うるせぇ!!」
鼓膜が破れるかと思うくらいの衝撃だった。
自分に何が起きたのか瞬時にはわからず、それが痛みなのか熱なのかもう判断できなかった。
俺は後頭部を壁に打ち付け、一瞬クラクラと目が回る。ずるずると無抵抗に畳に頭が落ち、視点が合わない目でどうにか希を見た。
ゆらりと怒りの熱が篭った身体でこちらに近寄り、唇を噛み締め、唸るように声を発した。
「――もう黙れよ」
その声は――怒りよりも、絶望に近かった……。
玄関のドアが閉まる重い音がした――。
希の足音が次第に遠退いていく――。
身体中のあちこちが熱く感じた。痛みなのか発熱なのか、麻痺していて正しくはわからない。やけに喉が渇いている。
鏡を見なくても自分の顔が今、どうなっているのか大体の想像はついていた。
「早く――、冷やさ……ないと……」
とにかく身体が重かった。自分の身体の中に大量の鉛でも入っているみたいに重くて鈍くて自由が利かない。畳に手をつき身体を起こそうとしてもなかなか腕に力が入らずすぐに倒れた。
倒れた勢いで畳に水滴が飛んで濡れたのを見て、俺は初めて目から涙が溢れていることに気付いた。
それがわかると急に心細くなって、俺は倒れたまま赤ん坊のように身体を丸め、声を殺しながらひたすらに只々、泣いた――。
初めてプライベートで他人に電話をした――。
電話の相手はタクシーですぐに飛んで来てくれた。
「泉 さんっ!」
ドアの隙間から茅葺くんの顔が見えただけで膝が一気に崩れそうになるのをなんとか堪える。それに気付いたのか彼はすぐに俺の身体を支えてくれた。
「ひでぇ……、大丈夫?病院行こう」
「いい……」
「だめだよ!」
彼はまるで自分の事のように辛そうな顔をして俺を優しく抱きとめた。
今の俺にはそれだけで十分に思えた。
怪我の治療なんかより、ずっと、癒された――。
急患で診てもらうのはものすごく気が引けたが、彼が心配するので仕方なく従った。治療が終わり廊下に出ると眼帯姿の俺を見て彼は酷く心配そうな面持ちをして駆け寄ってくれた。
「泉さん!」
「茅葺くん、お待たせ。肩、外れかけてたって。自分では気付かないもんだね」
俺は他人事みたいに無責任な笑いが出たけれど、当然彼は少しも笑ってはくれなかった。潤んだ瞳で俺をじっと見つめ、そしてまた優しく抱きしめる。
「泉さん……、もうやめなよ、もうあんな奴といちゃダメだよ。俺のとこに来なよ。あんな家、もう帰らなくていい」
魔法の言葉みたいに聞こえた――。
あの牢屋に戻らなくて良いだなんて悪魔ですらきっと言ってくれない。
縋ってはいけないとわかっているのに、これが最後には切れてしまう蜘蛛の糸とわかっていても、俺は手を伸ばしてしまうのだろう。
俺は頰に感じる彼の温もりと支えてくれる強い両腕に何よりも安堵し、ゆっくりと目を閉じた――。
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