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第七話『 LemonJuice 』 下
そして卒業式が迫ったとある日。研究室で二人きりの時間があった。
その時に桔流は教授が小さな紙袋を持っている事に気が付いた。
珍しい事だったので桔流が何気なく教授に尋ねれば、教授は少し照れくさそうにした。
まだ“そういった事”が身近ではなかった桔流は、自分を傷つける結果になるとも知らず、その袋の詳細を尋ねてしまった。
「ずっと、いつ君にお礼を言おうか迷ってたんだ」
「?」
「こんなタイミングで申し訳ないけど、これは本当に君のおかげなんだ。ありがとう」
「ちょっとなんですかいきなり」
悪戯っぽい笑みを作り、探るように教授を見た桔流に対し照れくさそうにして彼は答える。
「実は僕、……今晩プロポーズするんだ」
「……え?」
照れくさそうにしながらも幸せそうにはにかむ彼の表情は、何よりも今が幸せだということを物語っていた。
他に誰もいらない。
ただ今愛する相手にすべてを尽くせることが幸せだ、と。
そう言っている笑顔だった。
「これ、結婚指輪なんだ。随分遅くなっちゃったんだけど、やっと伝えられるよ」
「………………」
「桔流君にも色々恋愛の話をさせてもらったから、本当に勉強になったんだ」
「………………」
「僕、恋愛なんて縁遠いから。恥ずかしい話だけど、君とこうやって色々な話が出来て本当に良かった」
「………………」
「ありがとう、桔流君」
「…………はい」
「それと僕はね、君のような素敵なヒトなら必ず幸せになれる誰かと出会えると思ってるんだ」
「……はい……」
「だから、君もどうか諦めないで。君は絶対に幸せになれるから」
「はい…………先生」
「ん?」
「……おめでとうございます」
「ふふ、改めて言われると照れるね。ありがとう。まだプロポーズはこれからだけど」
「あはは、ちゃんとプロポーズも成功させてくださいね。焦って言う事間違えちゃだめですよ?」
「はは、まいったな。うん、頑張るよ」
「はい。先生、どうぞお幸せに」
「うん、ありがとう。桔流君」
桔流は笑顔を作るのが得意だった。
この特技は、面倒事をするりとかわすにはちょうどいい。
その程度のものだと思っていた。
だが彼はこの時、この特技に心から感謝した。
唯一彼から恋した、たった一人の人の幸せを笑顔で祈り、そのヒトの新たな門出を見送る事が出来たから。
そして桔流はその後一切、誰からの告白も受け付ける事もなく、恋そのものを自分の世界から消し去った。
グラスの氷はすっかり溶けきって、あの日、幸せそうに微笑んだ教授の背中を照らしていた美しい夕焼けのようなグラデーションを作り出していた。
桔流 はそのグラスを取り、ゆすって夕焼けを掻き消す。
桔流が指輪についてやや過敏になったのはこの出来事からだった。
このショックが色濃く残っていた当時は、何かしらの形で指輪を見るだけで心が締め付けられ、涙があふれる事もあった。
誰ともなしに一人、嫌だ、いかないで、と呟きながら泣いた事もあった。
ただこの経験があっても、恋愛や好きというものはやはり、桔流には不可解な存在だった。
だが、少なくともヒトを好きになるという経験はした。
そんな桔流だったが、花厳 には“誰かを自分から好きになった事がない”と言った。
今にしても思えば、そう嘘をついてしまう程に教授の話をするのは今でも辛かったのだ。
だからこそ、どうしても花厳にこの事を踏まえての過去を話すことができなかった。
(やっぱ、忘れられてなかったな……)
そして、そんな時に出会ったのが法雨 だった。
桔流がヤケになり酒をあおり、昨晩と同じようにこの店の裏手で酔い潰れていたとこを、法雨に店の中へとあげられ、凍えきった身体を介抱してもらった。
そしてその恩を返す為にこのバーで働き始め、今では居心地が良くてそのままの常勤スタッフとして働いている。
「なんで忘れられないんですかね……。先生ン時は、諦めるのは早くできたのに……」
「……ねぇ桔流君。二度ある事は三度あるって言葉があるけど、アナタが信じてるのはきっとこの言葉よね」
「そう、ですね。現状が物語ってます……っていっても、今回が二度目になるんですけど」
「そうね、もし今回がまた同じ結果になるのなら“二度目”になるわね。だからアタシはこう思うわ。“二度とない”」
「え?」
法雨の言葉に理解が追いつかず、桔流はただ疑問の声をあげた。
そんな桔流に法雨は続ける。
「今回は同じような経緯があっただけで結果はまだ分かってないわ。アナタは今、結果から逃げてるでしょう。本当に他の誰か宛ての指輪だったかなんて、まだわかってないのよ?だからアタシは“二度とない”に賭ける」
「……でも、すげぇ気まずそうな顔して袋出したんですよ……しかも同じヤツ……」
「そうね。でも花厳さん、アナタがモノが残る贈り物されるの嫌だって知ってるから、“消えモノじゃないプレゼント”は渡してこなかったんでしょう?」
「ですね……」
「だったら、そんなアナタにまだOKも貰ってないのに、“消えモノじゃないプレゼントを勝手に買って”渡そうとしてたら、あのヒトなら気まずそうな顔するんじゃないの?」
桔流はその条件下でプレゼントを渡そうとする花厳を想像してみれば、結果は確かに法雨の言うとおりだった。
勝手に用意しちゃってごめん、と言いつつ気まずそうな顔でプレゼントを渡してくるのも容易に想像できた。
それに、“前置きもせずに申し訳ないんだけど”と言っていたのも覚えている。
桔流は、自分はやはり誤解をしていたのかもしれないとも思えてきた。
だがそれでも行動に出る気になれないのは、それを信じて行動した果てで教授の時と同じ結果になるのが恐ろしかったからだ。
正直なところ、二度あった時点で桔流はもう立ち直れる気はしなかった。
三度ある前に死を迎えたいくらいには御免だった。
「桔流君。アナタきっと逃げきれないわよ」
法雨がグラスで薄まった酒をすっと飲みほし、新しい氷をからんからんとグラスに落としてゆく。
「逃げ切れない、って……あっちは追ってこないですよ」
「アラ、それはどうかしら? アタシの勘は反対意見よ。アナタ、確認や返事どころか花厳さんの言葉もちゃんと聞かないで逃げてきたんでしょう? ちゃんと最後まで聞いたの? 最後まで聞くのが怖くて逃げてきたんでしょう?」
「う……」
「いい? あっちは追ってこないんじゃないわ。花厳さんは異常に忍耐強いハンターなのよ。今のアナタにはどうあっても自分は介入できない。だから様子を伺ってるの。」
「様子を……?」
「そう、アタシには分かるわ。だってアナタの事を知ってるヒトならこう思うもの」
そう言ってグラスを揺らし、法雨は桔流の方を見て微笑んだ。
「自分の気持ちが整えば、曖昧な状況下におかれたアナタは、明確な言葉を訊く為に必ず何かアクションを起こす、ってね。それに、余裕のないアナタに無理な介入は禁物だって、花厳さんも分かってるのよ」
「………………」
「好きなんでしょう? 花厳さんの事。だってアナタ、彼に相手がいるんだって思い込んで辛くて逃げてきたのに、それでも忘れられないでまだ悩んでる。アナタはまだ、本当は希望や可能性を捨てきれてないのよね。」
「………………」
「そりゃあそうよ。だってちゃんと事実を聞いてないんですもの……。ねぇ、アナタは伝えたの? 彼に、アナタの何かを伝えたの? お互いに憶測だけして遠慮して本心隠したまんまじゃ、そのまま全て終わるわよ」
氷が溶けて琥珀色にの液体に溶け入る。
そのグラスの中では、ウィスキーと氷とが程よい調和を得ているからこそ、“ロック”という飲み方での美味さが出ている。
カクテルはといえば、これもすべて、複数の材料が程よい割合で混ざり合って美味さの調和を得て成り立っている。
そんな材料の割合は、過去にレシピを考案した者たちが“美味くなる丁度良い割合”を発見したからこそレシピに記される。
だがその考案の際に、こうであろう、ああであろうと考えただけでは、予想は出来ても実際にどんな味わいになるかは作ってみるまでは分からない。
憶測だけではだめなのだ。
同じグラスに入るまでは、彼らがどんな調和を得、どんな味になるのかはわからない。
お互いがグラスの中で共存し、良い味わいになる調和を得る為にはまず、お互いが同じグラスに入らなければ始まらない。
だから彼らもまた、憶測だけでいる今のままでは何も進むことはできない。
彼らはまず、再び同じグラスに入るところから始めなければならないのだ。
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