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第七話『 LemonJuice 』 上

 その日は、冬入りを体感できるような冷え込みを記録していた。  マフラーも意気揚々と活躍するようになってきた寒空の下、法雨(みのり)はやや足早に店へと向かっていた。  寒空の下に長居は無用。  店主であるからには、風邪で店を休むなどというわけにはいかない。 (早くお店で暖まりましょ……)  そう心の中で呟きながら店の裏手に入っていったところ、とあるものを見つけた法雨はやや目を見開き、ため息をついた。 「あらやだ……また子猫ちゃんなの?」  腰に手をやりながら、裏口の扉の横に座り込む“子猫ちゃん”を見て法雨がそう言った。 「来なさい。話は暖まってから聞くわ。子猫ちゃんにはホットミルク作ってあげる」  法雨は裏口の鍵を開けながら、彼の頭をぽんぽんと叩き微笑む。 「ホラ、早く入んなさい。アタシに風邪ひかせたいの? 桔流(きりゅう)君?」     ―ロドンのキセキ-瑠璃のケエス-芽吹篇❖第七話『LemonJuice』―      “子猫ちゃん”と呼ばれた桔流(きりゅう)は、店内のソファ席で何枚ものひざ掛けを放り投げられ、洗濯物で遊びまわった猫のようになっていた。 「み、法雨(みのり)さん……こんなに掛けなくても大丈夫ですって」 「だめよ。お店の中があったまるまでくるまってなさい。どうせ一晩中あそこで座ってたんでしょう。こんなに冷えて」  怒っているような口調だったが、法雨の声色も桔流の頬を包む両手も酷く優しいものだった。  桔流は度々、法雨を名前の通りの人だなと思う。  “法雨”という姓には“救いの雨”という意味合いもあり、またこの語自体には音の通り“実り”をもたらすという意味もあてられている。  また、雨が地を潤すように仏教の教えが人の心も潤す、という際に用いられる語でもある。  そんな意味合いをもった“法雨”という姓を、法雨自身も気に入っているとの事だった。  そして法雨を知る多くの人々が、彼がこの姓を持つことに納得していた。  この店に関係する者だけでも、彼に救われた者は客やスタッフ問わず多いのだ。  桔流もそんな、救われた者の中の1人だ。  そして今回もまた、桔流は法雨の手に救われた。 「桔流君。アナタはちょっとヤケになりすぎるところがあるわ。帰る家もあるのに、あんなところにいちゃだめじゃない」 「……すいません」 「ま、家に帰って一人を実感するのが怖かったってとこかしら?」 「………………」  図星だった。  家に帰れば一人暮らしである事から、その空間では本当に一人きりなのだ。  外にいれば他の人々と共有している空間という認識がある分、まだ気が楽だった。  更に、この店の傍にいられればもっと安心できた。  法雨をはじめとするスタッフの面々といられる暖かい場所。  桔流のもうひとつの帰る場所なのだ。 「言ったでしょ。そういう時はまずアタシに連絡なさい。熱く抱かれてる途中でも来てあげるわ」 「い、いやそれはちょっと……」 「ふふ、少し顔色が良くなってきたわね。まったく、イケメンがこんなに目腫らして。イイ男がなくのはベッドの中で攻められてる時だけで十分なのよまったく。いい?」 「………………」 「そこはハイって言いなさい」 「は、ハイ」 ふふと満足そうに微笑んで、法雨は安心したような面持ちで桔流の頭を撫でる。 「さ、じゃあホットミルク作ってあげるからそれ飲んであったまりなさい。甘いものは心の栄養なんだから」 「ありがとうございます」 「いいえ。じゃあちょっと待っててちょうだい」 「はい」  桔流は自分の頬を優しく包んでくれた法雨の手の温かさの余韻を感じながら、まだ冷えている体を温めた。       「そう……」  法雨は温かい紅茶に口を付けながら桔流の隣に腰かけている。  桔流は法雨お手製のホットミルクが入ったマグカップで手を温めながら、昨日の花厳(かざり)との出来事を話していた。 「アタシとしては、アナタの早とちりに賭けたいけれど……どちらにしても、あの時と同じ袋を出してくるのは無神経ね」 「………………」 「ま、でも桔流君からわざわざ何かしたいと思わないなら、このまま待ってみたらいいんじゃないの。ヒトはね、本当に大切なものなら、何があっても必ず取りに来るの。あのヒトは特にそう言うタイプだと思うわ。だから、本当にアナタが身をゆだねてもいいヒトなのか、少し考えるきっかけにしてみたらいいんじゃない?」 「きっかけ、ですか」 「そう、あのヒトがアナタをどこまで想っているのか。そして、この離れている期間で桔流君もあのヒトを想い続けられるのか。それを見極めるきっかけ。どうしても自分から動きたくなった時には動きなさい。ね」 「はい……」 そう言うと、法雨はまた頭を優しく撫でてくれた。        それから数日後、改めて花厳から謝罪の連絡が入ったが桔流(きりゅう)はどうしてもそれに返事をすることが出来なかった。  そして次第に忘れよう、と思うようになった。  自分が何もしなければきっと、花厳はまた別の人を好きになる。  花厳が前の恋人の次に自分を好きになったように。  自分のような曖昧な人間の相手をさせるより普通の恋が出来る相手といた方がいい。  桔流はそう考え、働いていればきっと気もまぎれるだろうと思っていた。 (なんで……)  だが、数日間フルタイムで仕事を入れてみたものの、まるで忘れることが出来なかった。  幸い仕事に影響が出ることはなかったが、背丈のある黒髪の客やクロヒョウ族の客が来る度に店の入口をはっと見てしまう事は度々あった。  そんなある日、桔流が仕事を終えて着替えていると、 「ちょっとこれから付き合いなさい」  と法雨(みのり)に声をかけられた。  付き合いなさい、というのは仕事後の酒の誘いという事だ。  桔流もなんとなく酒の力に頼りたい気分だったので、はい、とだけ返事をした。  そして手っ取り早く着替えを済ませ再びフロアへ向かった。  すると既にソファに腰替けていた法雨が手招きをした。 「いらっしゃい」 「はい」  法雨の前のテーブルにすでに2人分のグラスが置かれている事を確認した桔流は、そのまま法雨の隣へと腰かけた。 「あれからどう?」  あれから、というのは花厳と気まずい別れ方をした夜から、と言う事だろう。  出来ればもう大丈夫です、と伝えたかったのだが、あれから何も変化を得られていない現状からどう伝えればいいか言葉を探しながら黙ってしまった。 「だめみたいね」 「すいません……」 「やだ、謝らないでちょうだい。アナタはむしろもうちょっと塞ぎこんだらってくらい仕事もきっちりこなしてる。謝る事なんてひとつもないわ。だからこそ訊いたのよ」 「え?」 「無理してるって思ったから」 「………………」  見事に法雨に自分の状況を悟られ、桔流は言葉がなかった。  だがそんな桔流に法雨は続ける。 「ねぇ桔流君。アタシね、今回の事があったからってだけでこんなに心配してるんじゃないの」 「どういう、事ですか?」 「アナタ、こないだ裏口にいた時あの時よりも酷い顔してたのよ」 「……そう……だったんですか」 「えぇ。だから心配なの。ねぇ桔流君。アナタ、ふっきれたって言ってくれたけど、あの時の事本当はまだ忘れられてないんじゃないの……?」  自分の前に置かれたグラスの中で、バランスを崩した氷がアルコールの海に音を立てて沈む。  桔流は、赤みを帯びた琥珀色の海に沈んでいく氷を眺め、かつて想った人との最後のやりとりを思い出していた。        “あの時”。  それはまだ、桔流が大学生だった時のこと。    大学生になった桔流は、相変わらず“正しい恋愛”というものがどういったものか分からず、高校時代に引き続き告白をされては付き合い、ある程度過ごした後に結局別れを散々繰り返していた。  男との恋愛も経験してみたものの、女よりは気遣いをしなければならい点が少ないというくらいで、疲れるものにかわりはなかった。  その果てにたどり着いたのが“恋愛は面倒くさいもの”、“理解できないもの”という結論だった。  好きだと言われて告白され付き合ってはみるものの、情は生まれても一向に恋するには至らず、好きと言うよりは“いても問題ない”程度にしかなれなかった。  その当時はまだ、桔流は一度も“自分から誰かを好きになる”と言う事を経験できずにいたのだった。 (恋愛とか付き合うとか、しない方が良い。疲れるし……時間も金も勿体ない……)  そう思い至った彼は、じゃあ恋愛をやめよう、と思った。  だが、顔立ちや人付き合いの良い彼を“恋愛ゴト”の方が放っておいてはくれなかった。  高校時代同様、事あるごとに男女問わず告白をされ一時はストーカーのように付きまとわれ、付き合ってくれないならと眠剤を盛られ拘束されたり道端でナイフを持った相手に殺されかけた事もあった。  そうしてあまりにも壮絶すぎる経験が重なり、桔流は恋愛なんてものはろくなものじゃないとより強く思うようになってしまった。  だがそんな中で、桔流は初めて自分から誰かを好きになるという経験をした。  桔流にとってそれは初めての恋だった。 ――自分から誰かを好きになった事はない  そう花厳に言った桔流だったが、実はこの一度だけ、彼は自分から恋をしていたのだった。  だが“どうして好きだと気付いたのか”はこの時の彼も不明瞭だったのだ。  花厳が言ったように“気付いたら好きだった”。  それだけだった。 「桔流君は本当に優秀だね……。僕の研究室に入ってくれて嬉しいよ」  男は桔流にそう言って微笑んだ。  桔流は度々男がくれるその言葉が純粋に嬉しかった。  桔流が初めて恋をしたのは、彼が所属していた研究室の担当教授だった。  その教授は成績も良く、教授が担当する分野に意欲的な桔流を大層を気に入っていた。  そして桔流がまだ彼に恋をする前から、様々なきっかけごとに桔流を助手役として連れ立ち、教授と生徒という関係性の上で桔流の成人後は二人で飲みに行くこともあった。  そして桔流は、自分を優しく褒め、桔流がする事で喜んでくれる教授を好きになっていった。     その中で、桔流は教授はバイセクシャルであるという事を知った。 「桔流君もそうだったんだね」 「はい。因みに先生は今、どちらとお付き合いされてるんですか?」 「あはは、実は僕。今はフリーってやつなんだ。恋愛経験が少なくてね……なかなか」  桔流はその話を訊いて、自分が先生の恋人になれる可能性を見出した。  それにより教授との時間をより多く持つようになり、桔流はより教授に懐いていった。  そして教授は日々の中で、少しずつではあったが桔流に対してスキンシップもとってくれるようになった。  桔流が頭を撫でられるのが好きだと知って、二人きりの際に褒める時は決まって頭を撫でてくれるようになった。 「桔流君が色々と頑張ってくれるから、僕も研究がはかどるよ。でも恋愛の事を色々教えて貰ってるから、どっちが先生だかわからないね」 「そんな事ないです。俺はただ経験したことをお話ししてるだけですから」 「経験したことは全て知識さ。僕らも、研究して経験して得た知識をこうしてまとめている。恋愛学とはまた違うけれど、君の経験から教えてもられる事は、僕の知識になって大きな財産になるんだ。だからいつも感謝してるんだよ」  教授はありがとう、といってまた桔流の頭を撫でた。  このお互いの距離の進展は桔流の心をより満たすものだった。  そして桔流はついに、卒業した際にはちゃんと告白をしようと心に決めた。  桔流が“今すぐに”を選ばなかったのは、現在は生徒と教授という間柄から断られるだろうという確信があったのだ。  以前教授が女生徒に告白され、それを理由に断っているのを見たことがあった。  だからこそ桔流は募りはやる気持ちを抑え、卒業の時を待った。      

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